オリビエートの坂の上

観劇のメモを投げ込む予定です

されどさだめの夜は明け(ミュージカル『憂国のモリアーティ』Op.3 ‐ホワイトチャペルの亡霊‐ モリミュ 感想)

8/8 (土) ミュージカル『憂国のモリアーティ』Op.3 ‐ホワイトチャペルの亡霊‐
夜公演スイッチング配信

 

 

概観

今回もとっても満足です!!!開始三分で「これ過去最高では?」感があったのですが間違いではなかった。確実に過去最高です。歌もさらにレベルアップし、演技も過去一スッと入ってきて、とても自然に作品の世界がそこにありました。
技巧と再構成のOp.2に対し、今作は分かりやすくストレート、シンプルで綿密といったところが特徴でしょうか。楽曲はミュージカルっぽさに加え、今回はポップス系統の雰囲気も感じました。なじみよいテイストだったと思います。
そして構成の流れるような美しさと緻密さ、解釈の繊細さは健在。あんまり見事なので毎回新鮮にびっくりします。
内容的にはwill & hope 概念の展開、モリアーティプランの進行、それらに立ち込める忌まわしき暗雲の示唆といったところ。Op.2からの流れが美しく、Op.4への完璧な導入と言えるOp.3だったと思います。


順番にいろいろ

・序盤の世界観説明とスタンス説明、分かりやすく自然な流れで天才。あまりにも美しい構成。最後まで観ると、最初に必要なことや概要が説明されていることが分かるんですよね。最序盤で今作のシャーロックの特徴ともいえる感情の揺れ動きについてちゃんと示しているのも親切。

ジャック・ザ・リッパー♪のキャッチーなリズムいいですよね。リフレインもあって凄く耳に残ります。

・身を守るすべを、の曲の、ウィリアムの割れたガラスのような鋭さと苛烈さ、悲しくて大人でしかなくて泣いてしまいました。子供が大人であることはいつも悲しい。青い炎というモチーフは後半まで一貫して出てきますね。

・弱き者の魂を救うのは神ではない、その通りだけれども、じゃあ弱き者のために悪魔になった人間は誰が救うのだろうなと思ってしまいます。

・ホワイトチャペル事件の説明曲、シュールでコミカルで同時にぞっとする気味悪さもあり、すごく好きなテイストです。

・ハドソンさんの名前出てくるの嬉しい〜!!!ハドソンさんLOVE!!

・謎が謎にの曲、リズム的には今作一好きかもしれないです。あと謎が謎に謎と、って助詞が並べ立てられるのが個人的にすごい好みです(助詞にこだわりがち人間なので)。この曲でも存分に堪能できますが、今回のシャーロックは細い糸を辿るように感情の機微が精緻。

・VS自警団&ヤードのところの曲、話の流れに乗ったテンポが心地いいです。演劇にすると分かりづらいかなと思ってたホワイトチャペルの攻防がすっと入ってきました。

アルバートが弟を案じる追加シーン。アルバートはウィリアムの孤独に手を伸ばせないことをよくわかってるんだなぁ。だから「ただ傍にいよう」と言うんですね。ウィリアムもそんな兄の気持ちを凄く嬉しく思ってるのが見て取れる、切なくて温かいシーンです。

・孤独の部屋・・・ウウ・・・きりたつ崖のような孤独を表現できる勝吾さん。そしてそこに吹く風を想う表情よ。ついいつまでも原っぱで遊んでいてほしくなってしまいます。でもそうではないんだよね、という話は後述します。

・一幕ラストの曲、一幕まとめ&二幕予告としてのとりまとめが上手すぎました。どうやったらこういうの作れるんでしょう。

・追加シーン(医師の家)のジョンの歌好きです〜;;すごくジョンらしくて、胸にせまります。光のジョン。

・「行くぞジョン」のバリエーション広がりましたねえ。お互いの信頼感が見えるようになって、公演(物語)を経るごとの変化が楽しみなセリフです。

・心のロンドはモリミュの概念濃縮って感じの曲でしたね。I will / l hope の言い換えと言ってもいいような気がします。

・ヤード潜入時の秘密の城ソング、これもポップでテンポよし!シャーロックが鍵開け得意すぎて笑ってしまうし、ひたすらボンドにときめきます。

・レストレード大活躍からの、シャーロックの「ワーオ!ハハハ!」がとても好きです。めっちゃ平野シャーロックぽいですよね。

・アータートン裁判のところも追加説明として優秀でした。流れ的にこれがあるのですごいわかりやすいし、アータートンやジョンの人物描写ができるので。

・冤罪事件編のラスト曲は、各人物の心情が描かれた現時点の総まとめですね。次回への布石も含まれていたり。「君たちが大切だから僕はひとり」、この考え方ものすごくウィリアムでアアアアーーーとなります。

・大学編、嵐の前の雲の切れ間のような穏やかな時間。思索は自由、とウィリアムがビルに言っていたけど、ウィリアムも数学のことを考えている時だけは何ものからも自由だったのかもしれないと思います。バックに映る青空は、ウィリアムとシャーロックが英国の人々みなの上に広がるべきと思っているものなんだろうな。ビルの個別のケースというよりも、「理想の世界」の具体例のような話でした。

・シャーロックが「罪を犯している以上責任を取らせる」と決意したのを聞いて、ウィリアムはほっとしただろうなあ。もちろんシャーロックの性格からしてそう言うことは分かってただろうけども。向かい合って笑いあっているところはまさしく気の合う友人同士で、この後それを引き裂かんばかりにやってくる嵐に思いを馳せずにはいられませんでした。

・ラストのI will / I hope 2、この曲がOp.3で一番好きです。定めの死を歌うウィリアムの横顔の美しさよ。これがゴルゴダの丘を望むメシアの顔か。ウィリアムとシャーロックの個人感情、プランの進行、待ち受ける嵐というすべての要素が詰まったOp.3の最後に相応しい曲でした。


登場人物別

ウィリアム
勝吾さんのウィリアムは本当に繊細だな、と思います。今作での感情の機微を見ていて特にそう思いました。繊細で心細やかで、理想家にしては優しすぎて。最後、「シャーロック」と名を呼んだときに彼はどんな顔をしていたのだろうな。次作・・・次作・・・めちゃめちゃ観たいけどつらいのでみたくない・・・いややっぱり観たい。どうしても勝吾さんのウィリアムで観たいです。

ルイス
また歌声に響きが加わりましたね!?すごい。包み広がるような歌声。兄さんと「仕事」できるの嬉しいんだろうなあ~と思いながら制裁シーンを見ていました。何も言ってないのに兄さんが大好きなのがわかるのかわいいね。

アルバート
弟を案じるシーン、長兄らしくて良い~~~!!!終わりには死しかないと言いながら、案じて愛しているアンバランスさがこの人の魅力だなと思います。人間は年齢でどうこうではないとはいえ、彼が心を決めてウィリアムたちの手を取ったのは子供の頃なんですもんね。今もその志は固いだろうけども、一方でなんの変哲もない普通の家族であれば、もしそうしていたら弟たちは違う幸せを掴めたのではないか、と思ったこともきっとあったでしょう。そういう大人になってからしたであろう葛藤や、時間とともに密に織り込まれてきた愛情が垣間見える良いシーンでした。

モラン
今回貴重ないじられキャラで、シリアスな作品にほっとする瞬間をもたらす存在でした。なんか家族団らんのテンポですよね、彼がからかわれてるところって。彼らにもこんな風になごやかな時間があったのだな、と思うとなんだか泣きそうになります。

フレッド
フレッドも人物像がはっきり見えてきた感じですよね。なんせ原作リスペクト(?)であの役割を担うことになるわけなので、現時点で主義主張がしっかり見える人物になっていて嬉しいです。

ボンド
もうすっっっっごくかっこいい。毎瞬かっこいい。屋上からキャー好きーーー!!!って叫びたい。キメの画がぜんぶ見事にサマになるのすごすぎる。アイリーンも好きでしたが、ボンドへの好きもさらにノンストップです。

ジャック氏
やっぱり人間が演じるというのはいいですね。キャラクターがものすごく立体的に見えました。こういうおちゃめ渋い役が入るとまた違った賑やかさが出るものだなと思います。バトラー姿ナイスガイ!!

シャーロック
今回は針が左右にふれるような様子のお芝居が多く、その振れ加減と表現がすごく好きでした。その揺れ続けていた何かが終盤の大学編でウィリアムと話をしてカチっと位置を決める、という感情表現の鮮やかなこと、唸ります。平野版シャーロックは常に最高打点。

ジョン
この善良で純粋で正義を見誤らないジョンがすごく好きです。
人物描写追加で深堀りされてたのナイスでした。次回ジョンがメインに出てくることもあり、描写追加したのいい布石だなーと思います。

レストレード警部
めっちゃ!!!よかった!!!好き!!!お人形芝居のシュールコミカルさに始まり立場上の苦悩、それでも頑として正しいことを譲らない姿勢、ガチのかっこよさMVPでした。初作から警部好きなのでがっつりした見せ場があるの嬉しかったです。

パターソン
原作の(私の中の)イメージとは微妙に違うけど、それはそれとしてキャラがしっかりしててイイネ連打しながら観ていました。なんというか、私の脳内パターソンよりよりもこのパターソンのほうが今回の立ち回りにぴったりのキャラだったと思います。こういうのがあるから原作ものは面白いんですよね。

アータートン
今作、個人的に妙に共感というかシンパシーを感じたのがこのアータートンでした。彼の言う正義は正義ではないけど、それを自分なりの正義と思ってしまうのはすごく分かる気がします。きっと私も彼と同じことをやりかねないな、と思わせる人物像でした。

ミルヴァートン
こんなにいかにも邪悪な悪役、ほかにいます??ってくらいの真性悪役。この人は誰にもどうしようもできないと思わせられるほど、悪であるがゆえの強者感が風格となって漂ってます。ラストの曲でウィリアムとシャーロックの上段にミルヴァートンが立っているところの暗雲感、最高でした。このミルヴァートンがいるから次作がますます楽しみになってしまう。今後の展開を考えると張り倒したくなるけども!!ああーーーカーテン*1!!!

 

そしてピアノ&バイオリンありがとうございました!!今回も最高でした!!ぜひずっとモリミュと一緒にいてください!!


ウィリアムの「大人らしさ」

今作のウィリアムは序盤から大人の男性っぽさが際立つなと思っていたのですが、孤独の部屋で「風」*2を求め焦がれる彼は夢を夢みる子供のような顔をしていて。おそらくその賢さゆえに幼少のころから大人でしかいられなかったウィリアムは、本来なら子供である頃に埋められるべき何かが欠落したままなのかもしれません。
それがあり前作では彼が子供のようにいられるようにと願いつつ観てしまっていたところがあるのですが、今作では終始、ウィリアムは大人でしかいられなかったというよりも、自分で大人であることを選んでいたんだな、というのがわかる佇まいでした。
ウィリアムにとっては、死の影の谷を歩み続けるのが生きることなのかもしれません。目的地がゴルゴダの丘だったとしても。
ならばせめてその道行きに良い風が吹き、慰めになるようにと思ってしまいます。(まあ実際はそよ風なんかじゃなく暴風になってひったたいて捕まえてこい!!!とは思ってますけども)

 

正しさの話

今作特に思ったのが、この作品で描かれているのは19世紀の大英帝国でもあり、現在の日本でもあるということです。加速する格差社会、貧困、弱者を操り食い物にする人たち。言ってみれば、「ジャックザリッパー」たちもアータートンもミルヴァートンも、私たちの目の前にいるわけです。実際、スコットランドヤードの冤罪騒動なんて似たようなことがその辺にごろごろしているのだと思います。その世界に生きる中で真実を見抜き、正しさを見失わずにいられるのか。この作品ではその問いが投げかけられ続けているのだなと強く感じます。

 

色々書いたんですが全然書ききれてないので、またアーカイブ千穐楽配信見て追記するかもしれません。

 

 


余談


私事ですが、今回現地に観劇に行けないのが、劇場の座席に座れないのが臍を引きちぎる勢いで悔しいです。作品が良かったからなおさらに悔しい。といっても自分で決めたことなのだからあれなんですけども。ともかく、劇場に行くことにした人は最高に楽しんでもらいたいし、私と同じように行かないことを選んだ人は一緒に歯が擦り切れるほど臍を嚙みましょう。
そして様々な、甚大なリスクと恐怖を抱えながらこの公演を私たちに届けてくださった方々に感謝します。演者やスタッフにリスクがないとはとても言える状況ではなく、それを鑑みれば公演をすることの是非は私には結論が出せません。それでも少なくとも、上演された作品で心を彩られた人間がここにいる、それだけは事実です。素晴らしい作品を届けてくださった皆さんに感謝します。

 

 

 

 

千穐楽配信によせて追記

千穐楽、東京の配信と全然違うものが出てきたので初見並みにアバババとなりながら観ていました。
私はこのバージョン、とても好きです。愛情深い回だったと思います。色々と厳しいであろう状況の中で、二日間配信をしてくださったことに心から感謝します。

 

パート毎にいろいろ

・謎が謎に謎と
シャーロックがあんまりにも寂しそうに見えたのでびっくりしました。魂の片割れを求めて、空白に身を縮ませている子供のような風体でした。シャーロックにとって、今や求めてやまない謎と「犯罪卿」(あるいはウィリアム)は同一のものになりかかっているのかもしれません。次々と興味ある謎を追いかけ続けていた頃とは違い、一つのもの(人)を求めるようになると、それは常に砂漠で水を求めるような渇望と表裏一体になるものなのだなあ。謎を求める風来坊のようなシャーロックがその姿を示すことの意味の大きさを噛みしめています。

ゴルゴダへの道を
感情の振れ幅が強く表現されていたアルバート。その姿は、神に懺悔する人のようにも見えました。ウィリアムを救世主と例えるなら、アルバートはその肩に荷を負わせている人間の一人でもあるんですよね。彼はせめて共にその荷を負って丘を歩みたいと望んでいるけれど、きっとそれはほんとうには叶わないことなんでしょう。そのことを分かっていても望んでしまうのが、積み重ねられた情の深さだよなあと思います。

・孤独の部屋
ウィリアムが終始運命の定まった者の顔をしていることに、心臓を引き絞られました。やがて辿り着く磔刑の場所だけを見ているような目でした。このウィリアムの言う「許されるだろう」というのは、ほぼ仮定法の願望だなあと思います。
悪は許されるべきではないという彼の確固たる信念は例外なく自身を断罪していて、その刃で彼の身は傷だらけ。そして息絶えるいまわの際に風が吹いたら、それを慰めとするくらいは、と罪人が願っているようにも見えました。
これを見せられては、死を一種の救いだと感じてしまうのも分かるなと思ってしまいます。彼の中で救いに分類されているのが死と風というのはなんとも・・・これまでの傷の深さはいかほどか。

・心のロンド
感情表現の抑制が効いていて、かえって胸をつく曲になっていました。マリオネットの振りつけに表されている通り、今のところ彼らの立場は操るものと操られるものなんですよね(ウィリアムはタクトを振るマエストロにも見えましたが)。
特に今作ではシャーロック側の、分かっていながらも操られざるを得ないことへの葛藤や悔しさ、迷いが強く押し出されており、二人の立場のとりまとめ表現としても優秀だったと思います。
でもその人形は人形ではなく、生きているので。繰り手の思いもつかないような正の力と生きるエネルギーに満ちているので!!!!最後の土壇場で劇の枠をよじ登って繰り手をひっつかまえに来るのでよろしくお願いします!!!!と言いたくなるのは私だけではないはず。

・それぞれの心を抱いて
各人物の交錯する思いがあますことなく表現されている曲でした。ひたすらに頑なにさだめの時を思うウィリアムと彼を想う仲間たち、その不穏ともいえるすれ違いと、同一の、しかし交わらない思いを抱えているウィリアムとシャーロック。現時点の心情まとめを見事に楽曲で提供されてしまって脱帽です。

・大学編
最終局面に向けて加速するモリアーティ・プランの中、ウィリアムにとって、最後の幸福のひとときともいえる場面です。シャーロックと二人で向かい合って笑いあっている姿は無二の親友のようでもあり、魂をわけた双子のきょうだいのようでもあり。こんな風にずっと暮らしていけたら、生きていけたらという思いが彼の心をよぎることはあったのでしょうか(なかったかもなあ、あの定めの日に一点注視している目を見る限り)。
二人でビルの未来を導いたことは、世界(国)を変えるという本作のテーマにおいて象徴的な出来事でもありましたね。ビルのように未来を切り拓いた人の集合体が、理想とする「美しい」国になるのだと思うので。

・I will & I hope 2
シャーロックはウィリアムの光なんだな、と強く感じた曲でした。この曲を聴いていて思ったんですが、光って眩しく明るいだけでなく、温かいものでもあるんですよね。孤独に凍えた身体にその温かさを抱えて、ウィリアムは死に向かっているんだなあ。それでも歩みを止めない意志と理想の強さよ。
一方のシャーロックの「犯罪卿がリアムなら」ということの中身についても考えさせられました。最初は「自分と同じレベルの頭脳を持つウィリアムが犯罪卿ならサイコーに面白いじゃん!」というくらいだったと思うのですが、だんだんとウィリアムへの個人的な思い入れが強くなるにつれ、彼が犯罪卿なら至高の勝負になるに違いないしそれを他の人間には絶対に渡さない、というような気持ちが出てきているように思います。それにもしウィリアムが(義賊的にであれ)人を殺め続けているのであれば、それは止めなければならないし止められるのは自分しかいない、止める人間も自分でありたい、という思いもあるのではないかな。シャーロックにとってウィリアムは唯一の人ですから。


勝吾さんのウィリアム 

また歌が上手くなった、優しい理想家。
勝吾さんはウィリアムのことが本当に好きなんだな、と思えた大千穐楽でした。どこをとっても、ウィリアムというキャラクターに魂を分け与えているのが伝わってくるように感じました。人に、あるいはキャラクターに情をかけるというのは負担の大きいことだと思います。他人事にしておけば、何にも傷つかず苦しまずに済むわけなので。
でも勝吾さんのお芝居は、いつもそういう負担含みで人物(キャラクター)を素直に受け止めているように見えます。人間らしい情の深いお芝居だなあと思いますし、この人の目を通して見る世界はどんなものなのだろうな、と毎度羨ましさのようなものを感じます。

平野さんのシャーロック

子供らしさも大人らしさも喜も哀も変幻自在、トリッキーでまっすぐな唯一無二のシャーロック。ひねたところもあるけど、正しいことを正しいと捉えられる情熱家。
基本的には子供っぽいとこが目立つのですが、今作のビルのパートで顕著なように、肝心なところはきちんと「大人」が板についているんですよね。大人がなにゆえに大人であるのかを知っている人の言動だなあと思います。
全体的な印象として、原作のイメージそのままというより平野さんの色が強く出ているのだろうと思いますが、そのお芝居が表しているところは原作のシャーロックと常に同じです。千穐楽は特に、このシャーロックにこそ、ウィリアムを捉まえてほしいなと思える公演でした。

全体を通して

演技が作品の構成をさらに引き立てているような、愛情深く美しく繊細な千穐楽でした。
今は次作をひたすら楽しみにしている段階ですが、このシリーズもいつか完結して彼らとの別れの日が来ると思うと寂しくて寂しくて泣いてしまいそうになります。
記録媒体には残るにせよ、演劇の常として彼らはその時にしか存在せず、幕が下りれば観た者の記憶の底に沈んでいってしまいます。それはつまり永遠に失われないということでもあるけれども、やはり寂しさはどうしようもないもので。その寂しさも込みで、この作品が大好きだなあと思います。

厳しい情勢下のなか、自分は十分応援できているのだろうかと歯ぎしりすることもあるけれども。とりあえず今自分にできることとして、愛情表現としてこの文章を置いておきます。
あと壺はたくさん買います。

 



*1:アガサ・クリスティーポアロもの最終作「カーテン」のことです(盛大なネタバレをしてしまっている気がする・・・これから読む方がもしいたらすみません)。幼き日の私はノーガードであれを読んで何を是とすればよいのか混乱の極みに突き落とされ、以降一度も読めていません。こういう問題(?)って結構探偵ものには付き物な気がしており、その辺ホームズを宿敵と一緒に谷に突き落としたドイル先生はうまいな・・・と思うなどしていたのですが、そろそろもう一度向き合うべきかもしれない。ちなみに私はポアロも好きですがどちらかといえばミス・マープル派です。

*2:ちなみに「風」というモチーフは、原作で爆破終わって出てきたところらへんでふっと風を感じて何かもの思うようなカットが一瞬あり、そこから解釈を広げたものかなと思います。

落日を生きる(舞台『刀剣乱舞』无伝 夕紅の士 大坂夏の陣 刀ステ感想)

4/20(火) 昼 舞台『刀剣乱舞』无伝 夕紅の士 大坂夏の陣

IHIステージアラウンド東京

 

ネタバレある+説明端折るので観た人向けです

 



概観

夕紅(=豊臣家としての落日、放棄される時間軸)の中で生きるひとと刀の話でした。

全体としては、①胸に染鶴の矢を受けた②三日月そんな顔しないで・・・というか三日月にそんな顔させないで・・・という心境です。

そして私たちは次に何を見せられるんだ???



内容とか

一部

特に何も起こらなかったな??

とりあえずオープニングの染鶴がかっこよすぎて目を見張りました。他の人が喋ってる時に脇で遊んでるの可愛いな~~~!!ジカンソコウグンガシャベッタア!!

 

あとは三日月ですね。姿を見るだけで泣くかもとすら思ってたのに、あまりにもそこにいつも通りに存在していて、悲伝は夢だったのかと本気で思いました。あんなに苦しみながら見続けてきたことは全部辛いただの夢で、今日もいつも通り三日月はそこにいる、そんな風に立っていて。考えてみれば本作は悲伝の前なわけで、時系列でみたら「いつも通り三日月がいる」状態なんだからそう在るのが当たり前なんですよね。その当たり前をさらっと演じるの、すごいなと思います。

 

二部

殺陣のペース配分が一部<<<<<<<二部で笑いました。概ねずっと戦ってるというね。

全回転殺陣、あ~これ天伝でもあったな~今回出てくるの早いな~とか思ってたらまさかの二週目突入、三日月360度担当で目玉飛び出ちゃった。その発想はなかったな!

 

印象的なシーンは、三日月と鶴丸の会話ですね。永遠に続くとしたらどうすれば狂わずにいられる、という問いに本丸があるから、と三日月が答えますが、その答えこそ狂気じみているとも言える気がします。鶴丸は殊勝だなどと言っていましたが、三日月がそこまでの思いを持っていることに本気で驚いていたんじゃないかな。三日月といると退屈しないと言う鶴丸を見ていると、維伝の「寂しいんだ」のトーンが頭の中にぶわっと蘇って目の前の鶴丸と線になってつながって、たまらない気持ちになりました。

あともうひとつ、三日月と高台院の会話も印象的でした。持ち主でも本当に手にすることなどできはしない孤独な刀だと言われた時の三日月の表情といったら、一見なんでもないようで寂しさとか悲しさ、子供が置いていかれるときのような感情が見える気がして、でもやっぱりいつものように泰然と穏やかでいるようにも見えて、もうなんともいえないとしか言いようのない表情でした。仮に高台院の言うことがある一面の事実だとしても、そんな顔三日月にさせないでくれ、とつい思ってしまいます。人が手の届かない月だと言うから、その刀は手の届かない月になるんだよ・・・。三日月はここにいるのに。少なくとも本丸の刀や主にとってはそうではないのに。悲伝で見た三日月のいろんな場面のいろんな表情とつながって見えて、心臓を引き絞られるシーンでした。

 

そして逆回転カテコ、天伝で回転カテコやらなかったから絶対やると思ってたけど本当にやったよね。しかも三日月だけその輪の外を歩きながら、ニコニコと皆を見ている・・・ああーーーー・・・・。

からの悲伝→陽伝チェンジですよ!!悲伝当時、そういうの今後あるかもなと思ってたのに完全に忘れてて油断してモロにパンチくらってしまって悔しい!!(?)



脚本&演出

脚本

夕紅=斜陽みたいな感覚ですよね。豊臣の落日と、時間軸としての終わりと(正確に言えば放棄されるだけで終わっているとは言えないのかもしれませんが)。沈みゆく世界の話。

落日はただ日が落ちるのみ、というスタンスが厳然としていたのが好みでした。なんの番狂わせも起きず、起こるべきことが順に起こっていくだけ。

そしてその中でもがく人達の在り方が皆はっきりとした意思に基づいていて、わが身を省みて色々と考えさせられました。

内容以外のところで言えば、もっとテキトーにするとこはしてコンパクトにしてよ!という感じです(毎度思うので今更ですが・・・)。

 

演出

大喧嘩しました!!!果たし状を送りたいけど私はただの客なので、素人の一意見としてここに書いておきます。素人批判のお好きでない方はお手数ですが薄目スクロールもしくは目次から次にジャンプお願いします・・・。



全体的に平面的でした。物理的にも質的にも。ステアラやぞ??前通路だけじゃなくてもっと奥も上も横もあるやん??意味なくない?ただこれはセットが前作のままだったことに起因しているところもあると思います。質的にっていうのは、メリハリがなく華に欠けるという感じです。二部の三日月と鶴丸のシーンなんか、情緒的にひとつのピークをもってくるべきところじゃないですか。それを前通路での立ち話と気味の悪いマネキンで済ませるのはいかがなものかと。あのシーンにちゃんと演出つけられないなら脚本のほうを変えるべきだとすら思いました。二人の演技が凄くいいので余計に勿体なくて勿体なくて悔しい。役者の芝居を活かせない演出ってそれは演出ついてると言えるのか?というのはいつもは思わないけど、今作は全体的に思ってしまいました。十勇士の人数が多すぎて分散した結果かなという気もしますが。

 

あとは映像のダサさですね。ステアラの大画面活かして映像使いたい、わかる。いいと思います。でも、それなら映像の質を上げるべきです。いつもダサいんだから・・・(悪口)。資金の問題か請負の質の問題か、なんなんでしょうねあれ。作ってる側にダサいって自覚あるんだろうか。自覚はあるけどやむない大人の事情でそうしてるんならすみません。

最後に、秀頼の自刃の場面。あれ斬首の映像いらんやろ!!!!!!すごくいいシーンなのに興覚めにも程がある。あのシーン見て、映像がないと斬首だということが分からない人います?いるとしても、そちらに配慮してシーン自体をぶち壊しにする必要ないです、絶対に。元から破壊表現とかでもわざわざ映像入れるの興覚めだなって思ってたのですが(しかも映像がダサいときている)(また言う)、最悪の形で出ちゃったな~って感じです。

 

逆に良かったところは、秀頼の自刃のとこの三面鏡(三面ではない)から形態変化して彼岸花(に見えた)を映すところです。あのシーンは奥行きもあって本当に印象的でした。美しかった。

だからこそ、できるじゃん!!!こんないい視覚効果つくれるのに他は何なの???って思ってしまい・・・良いシーンがあるからこそ勿体なくて悔しい!!!って余計になってしまいました。長々とすみませんでした以上です・・・。



その他

・三日月の殺陣、オープニング時点でハッ!!今までと違う!?さらに進化している!!と思ったんですが、360°回ってくれたのに凝視してても何が変わったのかよくわからず。止めの動き(?)かなと思ったんですが。ここが違ったよっていうのがお分かりの方は教えてください。

 

・長谷部の殺陣も変わってましたね。受けるときの重さに説得力が出た?みたいな感じの変化に見えました。敗北を悔しがるシーンのお芝居もすごく好きだったのですが、地面に倒れられるとステアラでは見えない人が半分以上いそう。でも倒れてないとおかしいし、視覚の不備を補えるくらいに良い演技だったと思います。

 

・謎の人物X(一応)の殺陣、すごい華やかで鮮やかでした。そして衣装の裾をひらっと目立たせるのが上手いこと!捌きが上手い!存在感の差に感動しました。

 

鶴丸が三日月に先に行けって言うシーン、三日月が姿を消したのを確かめるのに鶴丸が一度振り返るのですが、この表情が最高にカッコよかったです。胸に矢を受けました。配信のカメラさんここ抜いてる?スイッチングさんちゃんと映してくれた?大楽よろしくお願いします!



にしてもまさか陽伝くるとは思わなかったですね。最後の鵺とよばれる・・・じゃないな鬼丸??というのも謎だし、座して待つべし!






私的な話 ※自分用メモなのでスルーしてもらって大丈夫です

 

実はちょっと前に思いがけず不治の病だよ!という宣告を受けたため(といっても有病率20人に1人くらいらしいのでよくあるやつなのですが)、メンタルぼこぼこで劇場まで行きました。一応首の括り方調べようかなと思ってたくらいです。何やっててもずっとそのことが頭から離れなくて、食べれないし寝られないしで最悪だったんですが、幕が開いた瞬間きれいにぜんぶ頭から消し飛んで、終わったときには憑きものが落ちたように身体が軽くなってました。

 

それに観てる時は思わなかったけど、「変えられない落日の中で人がどう在るか」という本作のテーマは自分の状況にも重なるんですよね。進んでいく病は変えられない、その状況でどう生きるか。日は落ちていくけど、沈むまでの行動は自分次第。自分の意思で決めて、自分が行動するもの。病がなくても人間はいつか死ぬので、もともと誰もがそうだとも言えます。そう思うとすっと楽になって、ちゃんと晩ごはんを食べれて、昨日より寝れました。

 

また演劇に救われてしまったな・・・と思います。今までも天災とか家族の死とか色々あって、その度に数時間全部忘れて救われて今日まで来て、さすがに今回はと思っていたけど、やっぱり救われました。これ書いてるのは観劇の翌日なのですが、地に足がついたというか、とりあえずは受け入れてやれることを淡々とやろう、という気持ちになっています。自分でも不思議なくらいに。

 

先の見えないリスクばかりの状況の中、この公演をしてくださったみなさんに感謝します。ここに救われた人間が一人います。本当にありがとうございました。

 

 

絵巻の奥にあるもの(舞台『刀剣乱舞』 天伝 青空の兵 刀ステ 感想)

3/20(土) 昼 舞台『刀剣乱舞』 天伝 青空の兵 大坂冬の陣

IHIステージアラウンド東京

 

ネタバレある+説明端折るので観た人向けです

 

 

概観

 

刀ステはステアラでも刀ステだなー!って感じでした。風呂敷広げつつの根幹はアイデンティティ譚、そして周り巡るリプライズ。

一番好きなシーンは一幕終わりの自我問答、一番抉られたのはタイマンで山姥切が弥助に言うセリフ、圧倒されたのは清光と家康の老若対決です。

 

印象的だったシーン三つ抜粋

 

アイデンティティ問答

一幕の最後、秀頼が自分の在処に迷い、一期にお前は何者かと問うシーンです。

ひとと刀が向かい合って己を問う構図は刀ステの真骨頂だと思ったし、一幕ラストとして過去最高に美しい幕切れでした。自分が何者かを問うことの寄る辺なさと深淵と苦しみがいかんなく表現され、だからこその尊さと美しさが光になって差し込んでくるあの光景。

気づいたら手が震えてました。

本当にブラボーです。こんなに美しいものを見せてくれてありがとう。

 

・喪失について

二幕で山姥切が弥助とタイマンするとこです。あの「喪う覚悟はできている」ってセリフ、人の心なさすぎというかどんな顔してこのセリフ書いたんです???いやすごいいいシーンだしまっとうに流れに合ってて抜群なんですけども!!

弥助が大切な人を喪った気持ちが分かるか!!って言ったとこから既に聞いてるこっちはちょちょちょちょやめやめやめ!!!!!ってなってるのにセリフは止まらない(それはそう)。

物語の時系列では「まだ」だけど(天伝が悲伝前であることは、清光と山姥切の発言から明らか)、その山姥切を演じる荒牧さんはもう悲伝を生きてしまった人なんですよ。その人に大切なひとを喪う悲しみと覚悟をあんなに風に??語らせる????

それ過去の未来に対する自傷ですよ!!!!(いや自傷ではないけど)となって、ゴリゴリに抉られました。山姥切の言い方が、伝え方があまりにも真摯だったので。ほんとうに心底「『覚悟はできている』と思っている」のが分かったので。すごい抉られたけど、無類のシーンでもありました。めっちゃよかったよ…あらまきさんちょっと見ないうちにまたレベルアップされてた…よかった…ほんとにどんな気持ちであのセリフ言ったんだろう。

悲伝の後の山姥切なら同じことを言うだろうか、言える場合と言えない場合があったら…とか寝る前に考えてしまってうなされそうです。

 

・老若一戦

清光と家康の一戦、たまたま巡り合わせた二人なのに双方すごい覇気と説得力、劇中の言葉で言うなら殺気、で圧倒されました。

戦に生を見出す家康に対して、「生きることが戦いだ」とあんなに説得力持って言えるのすごすぎる。もう真ん中にドカーンときてしまって泣きそうになりました。今回の歴史側のメインである秀頼と家康の話の総括じゃないですか。

 

加州、山姥切と同じ頃から本丸にいたという設定に違和感のいの字も感じさせないし、沖田さん周りの話も唐突(流れは通ってる)に出てくるのにすごい芯の通った感情が伝わってきて。

あらゆる物理的制約を消し去っている…これがリョウマツダ!!圧倒的実力!!好き!!!となりました。



演出&脚本

いつもの刀ステって感じでしたね(完)

話はフェイクが入ったりテーマの本数が多かったりで複雑め。二幕初めにおさらい入れる(超親切設計)くらいならもっと単純にして30分縮めてくれた方が私はうれしいんですけど、それは個人の嗜好ということで。

太閤左文字が山姥切国広を知らない時点でループや時間軸のことが(一部漠然と)答え合わせされるのも親切。それをいったん横に置いた方が今回の風呂敷要素とアイデンティティ譚に集中できると思うので。

 

ステアラ的なことで言えば、セットが広いなー高いなーでもあんま回らんな…?(修羅天魔やメタマクと比べるのもアレだけど)って思ってたら最後にハイどうぞー!!!って全回転されてめっちゃ笑いました。

最後の全力回転、群像劇であり絵巻物であるという表現としていいなあと思います。絵巻物モチーフは冒頭と、二幕で絵巻物調の雲が晴れるとこが記憶に残ってます。歴史の雲が晴れたところに青空を見出すの、今作での青空の意味を考えると示唆的で好きな表現です。

 

あと細かいとこを箇条書きで。

・時間遡行軍のみんな〜!

思わずゾッとしてしまった。私たち(審神者)が時間遡行軍、ありよりのあり。ほら遡ってるし。

 

審神者の手

マジカルアイテム登場!力技〜!って感じだったんだけどなんか不気味でいい感じでした。猿の手っぽくて、これ絶対ろくなことにならんなって思わせるやつ。

 

・間に合ったの対比

老いて終わりに近づいている人間の「間に合った」と、遅く生まれすぎた若者の時代の終わりに「間に合った」。 上手と下手でそれぞれがそう発するの、構図がめっちゃきれいでした。

 

・真田リリー

あんまりだ!!と思ったりもしましたが、まあ代償の話が出た時点でそうなるだろうなとも思ってました。それにしてもリリー。

 

他にも人間組!!芝居が!!うまい!!最高!!とか言いたいことは色々あるんですけど、まとまりきらないのでこの辺にしときます。

しかしなんか、過去作の総ざらいしてるとこからしても佳境に近づいてる感もありますね。(総ざらいというより相関提示とか補足説明なのだろうけど)

 

根拠のない予測ですが、きっと最終作では最初に戻るんじゃないかな。あの燃ゆる本能寺に。そこにはどんなひととものがいて、どんな物語を紡いでいるのか、まずは夏の陣が楽しみです。

 

 

幼稚で不出来な大人たち(舞台 時子さんのトキ 感想)

 

9/20(土) ソワレ 時子さんのトキ
@大手町よみうりホール

 

 
概観

とても良い作品でした。役者さんが皆上手くて楽しかったです。
それぞれのメインの役はもちろん、ちょっとした兼ね役に味があって素敵。パチ屋のお姉さんがめちゃくちゃ好きです。小さい頃の登喜も、会長もその奥さんもギョニソおばさんも自然な実在感がありました。


印象的だったのは登喜の初出であるかくれんぼのシーンでしょうか。内容的にというより、序盤のあのシーンだけで今後どういう話が展開されるのか大体分かるのがいいなと。明言されるのではなく演技だけで分かるので楽しいです。次にもう少し成長した登喜が出てくるところからは登喜を鈴木さんが演じていますが、その時点でもう既に一人二役であることの意味は提示されているわけで、そのあっさり感が好みでした。

 

主演の高橋さん、初っ端がモノローグでかつ長文なのに頭にするっと入ってきたので、信頼して観劇をスタートすることができました。時子さんとしての振る舞いがとても自然で、本当にこういう人いるよね、という感じがします。


鈴木さんについては、翔真の字面上のキャラ設定になさそうなとこが鈴木さんっぽくて面白いバランスだなと思いました。時子が子供と話してる時の所在のなさとか、台詞喋ってないときの表現が好きです。電話切って寝っ転がったときに説明セリフを待たせず「これ自分ちのベッドなんだな」と分からせるあたり、描写パワーも健在。

 

総じてこのお二方が演じていたから、このレベルの温度感で楽しかった〜とか言って劇場を出られたのかもな、と思います。後で書きますが、時子も翔真も割とろくでなしなので、演じる方/演じ方によっては腹だけ立てて帰ることになってたかも(それはそれでいいんですが)。お二人の時子と翔真には、こういう主題を扱うにも関わらずジメジメした汚らしさやいやらしさがなくて、全体的にさっぱりしていました。それがいかにもリアルな人たちを描く中での抜け感になっていて、絶妙な塩梅だったなと思います。

 

演出として、消毒やら検温やらというコロナモチーフが普通に出てきているのも興味深かったです。これからの作品は、何も言わずともこういうモチーフだけで2020年以降であることを示せるんだな、と思うとなんだか世界の不可逆性を感じますね。

 


内容について

ざっくり言うと、幼稚な大人二人の現実逃避の顛末、といった感じです。

 

時子

徹頭徹尾、自分のことしか頭にない人に見えました。自分が大事で大事で絶対傷つきたくない人。それが全てに優先しすぎて、子供のことすら極論どうでもいいのでは?と思えるレベル。

茶化したり引きさがるような態度を取りがちなのは相手のことを慮ってるからではなくて、自分が傷つきたくないからですね。相手のことがそもそも頭にないので、人の話を聞いたり理解しようとする姿勢もなし。精神的な余裕のなさ、あるいは寂しさが輪をかけていたのかもしれませんが、たぶん元々そういう性質なんでしょう。

 

時子にとって、翔真は明確に息子の代替物です。たまたま出会った青年が、母親ごっこをして満足するのに都合がよかったんですね。翔真になにかしてあげることで息子を放置している罪悪感を減らせるし、現実逃避もできるから。その上、所謂「推し」に対する「ファン」としての気持ち/行動なので息子のこととは関係ないですよ~息子の代わりにするとか酷いことしてませんよ~という言い訳もたつわけです。自分に対しても他人に対しても。

翔真に迫られた時に拒否したのは、わが子の代替物にしているのが自分でも無自覚に分かっているので恋愛対象としては認識エラーが出る、というのもあると思いますが、翔真がフィクションの存在だから、という理由もあるのかもしれません。逃避先としてハマっているドラマの登場人物に告白されても「えぇ......そうじゃなくて……」ってなる、そんなイメージ。時子自身も終盤、翔真との日々をファンタジーの中にいたと振り返っています。

 

白いメルヘンなセットの中で登場人物もみんな白い服を着ている中、時子だけに色がついているのはその「ファンタジー」の表現だろうと思いますし、翔真を息子の代わりにしていたのかも、と気づいて目が覚めると息子にも色がつく、というのが時子のファンタジーの終わりを示しているのでしょう。

 

この表現に見られる時子の自己認識が、私は非常に自分勝手に感じました。時子にとっては「逃げなくても息子には嫌われてなかったハッピー!馬鹿なことしてたわ〜やっぱ現実が一番よね!ファンタジー終わり!」って感じなんでしょうけど、そのファンタジーと称した現実逃避に他人を巻き込んだことに対してさすがに無自覚すぎるのではないでしょうか。他の人はともかくとして、少なくとも息子に対して母親たる自分の行動がどのような影響を与えたのかはよく考えて向き合う責任があるように思います。

そういった自分のことしか頭にない時子の特性については、本人よりも子供である登喜のほうが理解しているように見えました。登喜が言った「父親に付いていくことにした理由」は嘘ではないけど全てでもなく、母親が傷つかないであろう理由だけを開示した、というのが本当のところかなと思います。序盤のかくれんぼのシーンを見て、これは親が子供に遊んでもらってるんだなと思ったのですが、十年やそこら経ってもなおその構図は不変というわけですね。

 

それにしても時子は息子に恵まれたな、と思います。私が時子の子供なら、たぶん距離を置いているので。いくら優しくしようとしても、「一人暮らしするなら家事しに行ってあげようか〜」とか言われた瞬間にポキっと折れますね。離婚したせいで本来親がやるはずの家事負担を子供に負わせた経緯があるのに、そんな無神経なこと口から出します?普通。戦慄のセリフでした。

 

私から見れば時子は人の親に足るほど精神的に大人ではないし、相変わらず自分だけしか登場しないファンタジーの中に生きているように思えます。

 

そして時子自身がそんな自分をどう捉えているのかというと、七割無意識で三割は気づいてるけど気づいてないことにしてる、といったところじゃないでしょうか。本人の表面的な認知はともかく、どこかで自覚があるんだろうなというのは挙動からも推測されます。例えば会長さんへの対応を他の人より甘くしてたのは、金を借りる時に使える人だと思ってたからでしょうし。

 

ここからは私怨ですが、こういう人、周りにいらん迷惑をかけて引っ掻き回すくせに本人はあんま損しないんですよね。
時子も自分からは何もしてないのに捨てたはずの金が戻ってくることになるし、貢ぎ先の男と縁も切れるし、流れで息子との関係も改善するしで万々歳じゃないですか。

他人を振り回して害を与えながらもなぜか上手く生きていけて、でも自分では大変なのよ辛いわみたいな顔してる人、いるな~って感じ。
羨ましいのできらいです。

 

翔真

怠惰で受動的で卑屈。これまたよくいそうなタイプです。
才能がないのも努力をしきれないのも覚悟がないのも、ぜんぶ自分で分かっててダラダラとミュージシャン志望の真似事をしている。自分の甘さや駄目さを自覚してはいるけど、変わろうとしないし変わりたくないし現実に向き合いたくない。
他人が強制的に介入してきてやっと動けるレベルに怠惰。NPOの人が来ることを事前に伝えたらフェアじゃない、なんて彼は言いますが、そもそもその他力本願は何?って話なんですよね。なんで押しかけられた時子からの電話待ってんの?という。

ネガティブで卑屈だから怠惰に拍車がかかってるのかなという気もします。自分なんかどうせダメなんだから頑張っても意味がない、ってやつですね。だからといって他人から金を騙し取るような悪人になりきることもできない。ダラダラ他人の金使いこんでパチンコ打ってても、全然楽しくなんかなくて苦しいだけだったでしょう。

 

そもそも翔真は、別にミュージシャンになりたいわけではなかったのではないかなと思います。田舎の農家の息子っていうのがしみったれたもののように思えて、それより華やかな「何か」になりたくて都会に出てきただけで。
そんな彼にとって時子さんは渡りに船の害でしたね。他人の金と表面だけの期待に流された結果、何年もの時間を失って今後は借金返済生活。きれいな自業自得です。

 

時子に恋人じみたことをしようとしたのも結局、「何者か」になりたさが高じた結果だと思います。実家を出るときになりたかった「なんかすごい人」になれなくて劣等感まみれの中で、せめて誰かの特別な人になりたい、というような、これも一種の逃避ですね。中途半端な返報感覚がそれを後押ししたところもあったでしょう。

 

それでも最後は自分から言い出してあの修羅場に来て、ちゃんと実家に帰って10万円を返し続けているところを見ると少しずつ変われているのかもしれないなと思います。農家跡継ぎ兼アルバイターみたいな地味な肩書きでも何者かであることに変わりはないし、実家にいれば少なくとも親の子供ではいられるわけですからね。翔真は何となくそれはそれで納得して生きていきそうな気がします。何年も無為な時間を過ごした後でもなお夢を見るようなバイタリティーがある人間には見えないし、それが悪いことではなく地に足をつけて生きている地味な日々も価値があるものだと、そのうち思えるようになるのではないでしょうか。

 

翔真は天然で情状酌量の余地をつくるあたり小狡いし、憎めなさが時子と似ているなと思います。


総括

メインの二人について散々なことを言いましたが、じゃあ他の周りの人が立派な人間で全く瑕疵が無いかというとそうではないんですよね。時子の元夫は理由はどうあれ妻と向き合わずに一時家庭を放り出したDV野郎だし、関西弁の女の人も旦那と子供がいるのに黙って他人に金貸してたわけで。みんな完璧ではないし、どこかしら不出来なところはあるわけです。

 

それに時子が登喜や翔真に対して持った気持ちも、翔真が時子に持った気持ちも、全部偽物でなんの愛情もなかったのかと言われると、そこまでは言いたくないなとも思います。人間、誰もがダメなところを抱えながらもお互いに関わって生きていくしかないのだから、すねに傷のない気持ちだけを愛情と定義するのは範囲が狭すぎるでしょう、きっと。
(もちろん、だからといって自身の問題点から目を逸らしたり無かったことにするのは不誠実だと思いますが)

 

本作で登喜が母親のダメさを分かっていてなお母親に愛情を持っているのは、不出来でもぼちぼち生きてれば何とかなっていくもんですよ、というような温かさなのだろうな、と思います。

 

 

 

 

 

 


それにしてもこの作品は観た人によってだいぶ見え方が違うだろうと思うので、こうして思ったまま書き連ねるのは気まずさがありますね。他人は自分の鏡というか、人間は自分の脳を通してしか他人を捉えることはできないので、人様のあり方をどうこう言うことは自分の価値観や性格の暴露でもあるわけです。

しかしまあこんな個人的な趣味の記事で取り繕ったり予防線を張ったりしても仕方がないので、何年後かの多少は成長しているであろう自分が違う感想を持つことに期待して、今の自分をここに置いておくことにします。

 

ディーヴァよ少女であれ(ミュージカル『憂国のモリアーティ』Op.2 -大英帝国の醜聞- モリミュ 感想)

 

8/7(木) ミュージカル『憂国のモリアーティ』Op.2 -大英帝国の醜聞-

@銀河劇場

 

  

概観

「格差のない世界であるべきだ」という両陣営共通の理想や願いが軸として明確に通っており、そのおかげかエピソードの数が多かったり絡まったりしている割にはスッと入ってきた印象です。

前作は原作上取り上げる範囲に分かりやすい見せ場が多く(それを差し引いてもあのまとめ方と盛り上げ方は圧巻ですが)、今作はそうもいかないのでどうかなーと思っていましたが、殺陣で派手さ出しつつ大人の勝負もありつつで、あっという間の三時間でした。続きものの二作目だな~という感じ。

歌は素人耳にも更にパワーアップしており、序盤から澄まし顔でボコ殴りにしてくるので膝の上に置いた手にすごい力が入りました。殴られると身体に力入るよね。

アンサンブルさんの歌も演技もすごくいいので密度があるし、生ピアノとヴァイオリンが素晴らしかったです。

全体から作品にかけている思いのようなものが伝わってきた気がして、よい作品だなという思いを新たにしました。ちなみに観劇直後の感想としては「ときめきで心臓はちきれそう」です。



シーンごと感想

序盤はバスカヴィルの人狩りの話。この辺はフレッドの葛藤がメインで、前回のおさらいを兼ねてモリアーティ陣営のスタンスを示している感じです。

節々でウィリアムが差し込む「悪魔よ」ですが、最初の「あ」の音が想定外の音で飛び出してきたので膝の上の手がミシミシいいました。アクセントとしてよく映える音で大好き。

 

その次は列車編。シャーロックが薬物中毒でヴァイオリニストで室内で銃ぶっぱなすので最高~!となりました。座席からぴょんと跳ねたいレベル。平野さんのシャーロックへの好きが最高打点を更新し続けている。あの喉が渇いて仕方ないというような様相も、ぞっとさせられてほんとに素敵。

それに付き合って喧嘩もしてシャーロックは光だと宣うジョン、君も光だよ……この二人は光光コンビですよね。お互いがお互いの光。

そしてジョンとハドソンさんのポップな掛け合いソングがすごくかわいい。やれやれって言いながらいつまでもシャーロックの面倒をみていてくれ。

 

列車内、舞台版では前作で既にウィリアムが名乗っちゃってるしどうすんのかなーと思っていたら、むしろパワーアップしてお出しされたのでひっくり返ってしまいました。なるほどそういう方向に広げるか。(ここについては後述します)

シャーロックがカマかけた時のモリアーティ陣営の掛け合いの曲がすごく好きです。序盤わりと静かに進んでいたのが、ここで一気に全体の流れにギアがかかる感じ。緊張や疑念、警戒といったものがビリビリに伝わってきて、でもウィリアムは平然どころか楽しそうにしてるのがハ~~好き~~。

推理対決ソングもハチャメチャにテンション上がったんですけど、これもまた後で。

キャッチミーは最後まで見た後に反芻するとなおさら尊いですよね……挑発でもあるだろうけど、期待に応えてくれよ、と乞う曲だなあと思います。だって最終目的からすれば、捕まえられるのがゴールですから。

 

一幕終わりの曲は、ウィリアム一人から多人数に派生していくような構成が圧巻。ウィリアムが完全に女神。その歌声は福音だし、民衆が足を踏み鳴らす音は目覚めさせられた怒りで、まさに革命の足音のよう。

 一幕は世界観のおさらいと各人物の性格や役割、関係性の提示をしつつ、モリアーティ側から格差なき世界をという軸が示されたというところかなと思います。



続いての二幕はシャーロック側からそれが提示される形。観ていくほどに、両者とも理想としていることの大筋が同じであることが明かされていく構成です。 

 

マイクロフトお兄ちゃんとアルバート兄様の兄対決、権力者様が上のほうで心中バチバチして探り合いしてるのピリピリして良い。その描写としてだと思いますが、殺陣の演出入ってたのが大人っぽくてオシャレでした。モリアーティ長兄、平然と踏み絵に足乗せるの似合いすぎだし踏みながら相手を試し返しているのキャー!兄様ー!って感じです(ペンラ)(うちわ)。

 

アイリーンのターンでは大抵シャーロックがしてやられてるのがとてもキュート。アイリーンはシャーロックを振り回せる人であってほしいよね。わかる。

なんにせよ私は原典ボヘミアの醜聞の「おやすみなさいホームズさん」が採用されており大満足です。ちゃんと火事になったら機密文書のとこに走っていくし写真を渡すし通りすがりに挨拶するアイリーン、良き!!!

ハドソンさんとアイリーンのバチバチ悪魔淑女ソング、ものすごく好きです。全体通して一番好きかもしれない。悪魔とドレス淑女が出てくるのも楽しいし、バイオリンの方が悪魔のツノ付けてるのめっちゃかわいい!話が逸れますがバイオリンの方、シャーロックと動作がリンクしているところがけっこうあることに途中から気づいたのでもっと早く気づきたかったなと思います。映像に残りにくいだろうしなあ。

 

仮面舞踏会の華やかさはこの作品の面目躍如といったところでしょうか。こういうシーンがあると視覚的にも俄然盛り上がりますよね。

娘を殺された母親が出てきたあたりから、話がごちゃついてきてるなー今案件何本同時進行してる?って感じだったんですけど、舞踏会が出てくるとなんとなくテンション上がってまあいいか!楽しいから!ってなります。いちおう三歩遅れくらいで話は理解してたはずなんですけど、保険金詐欺と娘殺された案件と機密文書周りの話にさらにアイリーン側の動きも刺し挟まれるので、ぼーっとしてるとどれか取り落としそうだなという気も。

 モランの元部下の話が尺割かれて掘り下げられていたのは唐突感あったんですけど、モランの人物描写がここを逃すと難しいことと、悪事に手を染めるしかなかった犠牲者という視点の提示が軸絡みであることを踏まえるとアリかな、という印象。

 

前後しますが川に飛び込んだアイリーンとその信条に共感するシャーロック、両者の演技の良さも相まってとても心に残るシーンでした。

そして機密文書のことを知ったあと、このシャーロックが口にする「俺が守る」という言葉の切実さよ。この人は壊す人ではなく守ろうとする人なんだよなあ。

この作品のシャーロックとアイリーンは良い同志ですね。たとえ永遠に道が分かたれたとしても。

 

あと個人的に興奮したのが告解室です。礼拝堂って言ったほうが分かりやすいかもしれないけど。長兄、告解室似合いすぎる。告解室で崇拝する悪魔に自らの口を貸すなんて最高にクールじゃないですか。アルバートは悔い改めることなんかしないし懺悔されても別に興味ないし神なんか一瞬たりとも信じたことないんだよなあ。この人が信じてるのは、自らが見出して魂を捧げた悪魔だけなので。

 

そんな長兄だけでなく、次兄末弟も揃って顔を出した「ジェムーズ・モリアーティ」と「政府」マイクロフトの会合はなかなかの見ごたえと緊張感。

最後はかつてのロベスピエールのように自らを粛清させて目的を達するのだ、というやつ、マイクロフトの捉え方では自己犠牲だし社会的通念としてもそうだけど、三人はきっとそうは思ってないんだろうなという気がしました。目的自体が自己であり自我なので、叶えた瞬間に消えるのは当たり前のことなのではないかな。

ちなみに「ジェームズ」の中で唯一、ルイスはウィリアムに対してその見方が変わる可能性があると思うんですけど、どうなんでしょう。そんなことにはならんのかな。

 

それはそうと、二幕は総じて「公平平等な世界を」という軸がわかりやすく前面に出た内容だったかと思います。ラストの曲で心臓がキュッとなって頭真っ白になった話は下の方に書きます。



登場人物の話

 

ウィリアム

前作より原作のウィリアムっぽくなっていてホオー!と思いました。微笑んだときの可憐さが似てる。今回はどちらかというと安楽椅子ポジションだったからか、全体的にご機嫌で優しげでいることが多かった気がします。

歌に関しては今作はさらに高音ディーヴァでした。一幕の後半だったか、歌い上げてるとこにステンドグラスのような色の後光がさしてたの、まさしく女神。悪魔が女神の顔をしているというのも中々に示唆的ですが。

表現者なんだな、という感じの歌を歌われる方だなぁと思います。歌が音でなく感情として届いてくる感じ。前作の時より歌声が少し丸みを帯びた気がして、そこも素敵な変化でした。

 

アルバート

最初から最後まで平然鷹揚ご尊顔のお貴族様とても最高です。前作から私はこの得体の知れない人がめちゃくちゃ好きなんですよね。お上品で冷徹で傲慢で破滅主義。この人、一人でどうやってこんな狂人になったの?

 

ルイス

強火の同担拒否でフシャーってなっていて可愛い。列車の座席でテンション上がったシャーロックに絡まれた時、あまりにも嫌そうで笑ってしまいました。歌声がまた一段と艶やかになって、危うい彼の在り方によく似合っているなあと思います。あとナイフ?を手元で扱う手つきが好きです。あの刃物が良く似合う。

 

モラン

脚が長くてアクションが映える映える。元部下と出会ってしまったとこ、何を思ってウィリアムの下にいるのかという人物像が出ててすごく良かったです。そしてあのガラの悪さでオックス出身だと名言されてしまってテンションが上がりました。

 

フレッド

開始早々がメインどころだったのでトップバッターじゃんすごい、と思ってたら前作より歌も進化していてびっくりしました。よい葛藤でした。「ウィリアムさん」ってさん付けで歌うのかわいいね。

 

シャーロック

どのシーンが良かったか考えたんですけど、全部それぞれ良すぎてまったく選べませんでした。平野版シャーロックは最高。素直にジョンに謝れなくてグラスの氷くるっくるさせてるの、ハッピーニューイヤーメリークリスマスです。セリフの音程とリズムが常に耳に快く、かつきっちり聞き取れるのすごいですね。そして正装がかっこよすぎる。

 

ジョン

超善良でキュート。ずっとシャーロックと仲良しでいてほしい。列車編終わりの意趣返しセリフ、もっと言ってやれ!と思いながら見てました。

シャーロックがジョーン!って呼ぶあの呼び方が好きなんですけど、あれはシャーロックの甘えなんですよね。一見ジョンという小型犬を飼っているシャーロックって感じですが、実はシャーロックという大型犬をジョンが飼ってるという方が近いのかもしれない。もちろん二人は人として対等な関係ですが、イメージの話。



マイクロフト

祖先の罪なんていうものを大真面目に捉えてるあたり、性格が政府だなって感じのマイクロフト。個人的にマイクロフトって政治のできる変人ってイメージがあるけど、ゴリゴリにお堅いちゃんとした人って感じのもいいですね。いや弟の部屋入った瞬間あれやるのは普通の人ではないけども。兄対決、ちょうど両者拮抗してるな~という感じのバランスが良かったです。まさに大人の戦い。

 

アイリーン

原作にぴったりの理想のアイリーンでした。美貌の悪女然とした顔の下に理不尽許すまじの激情を抱えていて、それでもモリアーティ陣営の手に渡ったときには死の恐怖に怯える人間らしさがあって。髪を切るところ、本当に彼女には新しい生が与えられたのだという鮮やかさがあって非常に印象的でした。

bondを絆と評したのも、このアイリーンらしいなあと思います。

 

ハドソンさん

前作あんま歌わなかった気がするんですけど、綺麗な声してらっしゃってオオ!となりました。女の戦いソングめっちゃかわいい。素敵。全女性がハドソンさんに共感して応援したくなるシーンです。お家賃もらって喜んでるの可愛かったなあ。今作でさらに好きになりました。

 

レストレイド氏

本当に絶妙に面白い。好き。なんか人がいいというかキャラがいいというか、間がいいのかな。次作でもぜひ活躍してほしいです。ワー大変だ―!の練習がお気に入り。観客にこれは仕掛けですよと事前に知らせるいい演出だと思います。



ウィリアム&シャーロックの話

 この二人はお互いが個人として特別なんだな、と皮膚から染み入ったOp.2でした。

 シャーロックにとってウィリアムは、モリアーティ先生としては自分と同等の頭脳を持つ類い稀な人間であり、犯罪卿としては幻の想い人なんですね。

自分が満足できるような謎を提供する存在だから、とはしつつも、自分は犯罪卿のお眼鏡に適わなかったのか、というようなことを呻いて荒れに荒れる姿は古典文学の恋に狂う青年のよう。

そのイライラ鬱々からの、列車でウィリアム見つけた時のテンションの弾け方めちゃくちゃ笑いました。センセー!って飛びつくの、好きな子に思わぬところで会ってハッピー爆裂した男子そのものだし、お喋りしたいしカマかけて気を引いてみるし競争だー!ってなるし今度一緒に食事にも行きたい。めっちゃグイグイいくやん。リアムっていう呼び方かわいーね。

 

一方でウィリアムにとってシャーロックは目的を達成するための装置であり役者であり、それに留まらず個人的に興味を持ってもいる、といったところでしょうか。どんな人間なのかもっと知りたくなっちゃったから同じ列車に乗ったよ!っていうウィリアム、子供みたいでかわいかったです。同じ視座でものを見られる唯一の人間である、というのはウィリアムにとってのシャーロックもそうなんですよね。

 

強固な絆で結ばれた家族がいても、このウィリアムには不思議と孤独さがあるなというのは前作でも今作でもずっと思っていました。それがシャーロックと事件推理ソング歌ってるとこでは全くなく、というよりもやわらかに解けているようで、ああこの人はシャーロックといるとひとりではないんだなと感じました。同じものが見られるっていうのはそういうことなんだよなあ。

 

この人たち、二人でいると少年少女感があるなあと思います。原っぱとかで好奇心旺盛な子供たちが無邪気にきゃらきゃら遊んでいる感じ。まあ遊び場は原っぱではなく殺人現場なんですけど、そこではお互いの立場も関係なく、ただの個人として遊んでいられる。

でも世界は原っぱのような彼らだけのものではなく、同じものを見ていてもお互いの主義は相反しているから二人は敵味方でいるしかない。

 

そして敵味方ながらも、ウィリアムはわざとアイリーンが死んだという情報を流しながらもシャーロックがそれが嘘だと看破することを信じているし、シャーロックはそれに応えた上で、誠意とある種の敬意のもとに犯罪卿の名が書かれた封書を燃やす。

期待通りシャーロックが会いにこないのが嬉しいウィリアム、求めてやまない人の名を知る機会を、求めるがゆえに燃やすシャーロック。繋がっているのに繋がらない関係。

というようなことが、ラストのデュエット曲で唐突に輪郭と感触をもって表れてどんどん意味を持ってつながっていって、これロミジュリだったんだ!!!!となって衝撃でした。何言ってるか分からないですが、まるでロミジュリ。その瞬間まで全くそんなこと思ってなかったので、不意打ちで心臓破裂しそうになって慌てました。

 

絶対に相容れなくて、ハッピーエンドがありえないのにお互いだけが特別ということの甘やかな悲愴。うん十年生きてきて、古くから世の中に悲恋ものの作品がある意味を初めて知った気がしています。

 

まあこの人たちは貴方はどうしてロメオなのとも名を捨てろとも言わないし、言われて捨てるような人間でもないんですが、それでも個人的には概念ロミジュリなんですよね……ロミオとジュリエットも、私の中ではただひとつを共有した少年少女の話なので。それがたまたま一般的に恋愛感情と呼ばれるものだったために、あれは恋愛の話なのですが。

 

ということで、観劇直後の私の頭の中は心臓破りのロマンチックで埋め尽くされておりました。

このウィリアムは最期にどんな顔をするのかなぁと思います。ひょっとしたら悪魔でも女神でもなく、ただの子供のような顔で消えていくのかもしれない。

たとえ辿り着くゴールが滝壺だとしても、原っぱで遊んだひとときも焦がれた時間もなかったことにはならないし、過ぎたことは永遠にそのひとの中に閉じ込められるものなので。

 

まだ原作も完結してなくて気が早いのですが、モリミュでも物語の結末を見届けられることを願っています。

 

 

 

千穐楽配信&ディレイ配信観たので追記

 

 全体的なこと

流れを分かってから観ると、かなり緻密かつ整然とした構成でした。何回も観て細かいところに目がいけばいくほど、ここまで考えられてたんだすごい!的な発見があり、前作もですが全体的に理知的な作りだなという印象が強いです。

あと今更なんですが、ピアノの「タラララーン」やバイオリンの「キュッイー」(もっと言い方ないんか すみません)が漫画的表現でいう「ハッ!」のような、強調や注意を促す効果を持たされているのが分かりやすくていい演出だなと思います。こういう工夫で観るほうのストレスを軽減させてくれるの有り難いです。

 

ついでに上記の感想に書けてないけど演出的に印象に残っているシーンをいくつか。

・「汝を呪う」
周りのゲストたちの仮面が赤く光るの、(放火殺人の話から繋がるので)殺された人たちが地獄の死者として蘇ってロリンソンを呪いに来たようでぞっとする美しさ。さらにそこからオペラのクライマックスのような曲調に合わせてドン・ジョバンニ役のロリンソンが死に、犯罪卿探索遊戯と結末を重ねる構成が見事で痺れます。これぞ犯罪劇。

・マルチナがフレッドマルチナとすれ違うところ
無念を晴らす代理人であるという表現であり、フレッドがマルチナの魂を見送っているようにも見えて好きです。

・シャーロックの守りたいソロ
人に次々スポットが当たるところ、純粋に視覚的にテンションが上がるし、シャーロックの頭の中では世界はこんな風に見えてるのかなと思えて楽しかったです。私には見えない、シャーロックの言う「糸」を一時だけ見せてもらってるような気持ち。

・「沈黙です」
アルバート!!!!!兄様ァ!!!!!!ヒュー!!!!!!!
このワードチョイスは文書の内容について沈黙されたことへの意趣返しでしょうか。この人大体こわい人なんですけど、たまにおちゃめというかマイペース可愛いところが見える気がします。兄様のソロがもっと聴きたいよォ!!!!

 

 

「政府」会談における違和感と「ジェームズ」の末路の話

※あくまでミュージカルにおいての話です(原作をOp.2範囲までしか読めてないのもあり)

 会談のところは二回目見てもやっぱり違和感があったので、それについてもうちょっと考えてみました。
一つは上述の通り、「本人たちにとって、斃されることは自己犠牲ではない」ということから生じるもの。それともう一つ、彼らは「ジェームズ」が迎えるべき結末について認識を共有してはいても、実際に兄弟が死ぬことを良しとするかについては別の話で、その点は恐らく一枚岩ではないんですよね。

例えばルイスは、本心では兄二人に生きていて欲しいのではないでしょうか。特にウィリアムには。ルイスにとって「ジェームズ」の死というのは今のところ、「自分がウィリアムに与えられた命を返すこと」を限定的に指しているような気がしていて、土壇場になって三人心中に納得できるか、それを望めるかは疑問の余地があるように思います。基本的にルイスにとって生というのは肯定的な概念なんですよね。なぜならウィリアムが与えてくれたものなので。

アルバートについてはよく分からないんですが、自分が死ぬことに躊躇いがなく生にも何にも未練がない一方で、ひょっとしたら弟たちには内心生きていて欲しがっているかもしれないなあとも思います。ウィリアムの末路に死しかないのはよく理解してるはずなので、たぶん最期まで口は出さないだろうけども。ルイスには本人が死にたがらない限り生きてて欲しいんじゃないでしょうか。ただウィリアムがいない世界でルイスが生きていたいと感じることはなさそうだと思うので、そうなるとやっぱり結末はただ死があるのみ、ということになりますが。

ウィリアムはルイスには生きてて欲しいだろうけども、兄に殉じたいという本人の希望の方を優先する可能性も無きにしも非ず。アルバートは本人が生きることを想定してないし望んでもないので、そのままそれを尊重しそう。

というように、実は誰も心の底から三人揃って死ぬことを良しとはしてないのでは、というのが違和感の中身なのかなと思います。

 

でも兄や弟が死んだらウィリアムは悲しむんでしょうね。それこそ胸も張り裂けんばかりに。自分でタクトを振ったにも関わらず。だってアルバートは最初に罪のパンを分け合ったかけがえのない同志で、ルイスは目に入れても痛くないたった一人の弟で。

一幕終盤のソロに顕著ですが、そもそもウィリアムは善悪の別なく人間というものに対して情が深すぎるように見えます。不当に苦しむ人の呻き声も殺した人間の怨嗟の声も、全部覚えていそう。なまじ精神力が強いのをいいことにずっと一人で抱えているんでしょうが、無限に重荷を背負えるわけではないので実は見た目より危うい状態なのかもしれない。

そんなウィリアムの個人的な感情が見えるという点でも大千穐楽の最後の曲がとても印象的だったのですが、見えるというかほぼ完全にこれは(双方のお互いへの)個人感情の曲なのだろうなと思います。犯罪卿としての思いに主眼が置かれているなら「I hope」なんて願い事じみた表現は不似合いだし、あんなに夢を夢みるこどものような顔はしないはずなので。

ではその感情って何、ということになると、直感的にはウィリアムはシャーロックに自分の計画と命の幕を引いてほしいのかなと思ったのですが、これが私には実感としてよく分からず捏ねくり回しています。圧倒的人生経験不足。特定の個人に幕引をして欲しいと願うのは、どういう気持ちなんでしょう。

「どんな死の谷を歩んだとしても この果てで君と」という部分がありますが、「君と」の次にはどんな言葉が入るんでしょうね。君「に」、なら君に捕らえられたいとか終わらせてほしい、かなと思えるのですが、君「と」なので。君と会いたい*1?話がしたい?競い合いたい?一緒にいたい?
また彼にとっての「死の谷*2*3」が何か、というのも考えると非常に辛いものがあります。この醜い世界のことか、孤独であることか、生きていることか。「闇を照らす光」の闇と「死の谷」は近い意味合いだと思うのですが、ウィリアムの目にはシャーロックがどんな光に見えているんでしょう。

 

そしてそのシャーロックは犯罪卿の正体を絶対に自分の手で突き止めると決めてるけど、その結果死なせるのをよしとはしないだろうし、ましてや犯罪卿がウィリアムであれば絶対に死なせたくないはずなんですよね。

だからウィリアムのhopeとシャーロックのwillが重なることはないわけで。
聴けば聴くほど、考えれば考えるほど悲恋ものすぎるな......と思って毎日リピート再生しては枕を濡らしています。劇場(東京)で観た時は脳が処理落ちしたので記憶が曖昧なのですが、大千穐楽配信観たらさらに悲恋度が上がっていて情緒がメソメソになりました。

 

どんなエンディングであろうと絶対モリミュで観たいという欲がブーストされた大千穐楽でした。Op.3待ってます!!!!!

 

 

内容とは直接関係のない話と感謝

なにより完走おめでとうございました。一介の客ながら、これほど千穐楽に安堵したことはないかもしれません。勿論公演後二週間の壁というものが存在し、そこまでソワソワは続かざるを得ないわけですが。個人的には現状劇場で客側のリスクってあんまりなくて、あるとすれば断然公演する側(キャストスタッフ等現場で働く方)だと思っているので、とりあえず現時点で皆様ご無事なのかなとは思いますが、引き続き健やかに過ごされることを心の底から祈っております。

 

今回約半年ぶりに劇場に行って、やっぱり劇場で見る演劇は唯一無二だなあという思いを新たにしました。私は演劇は世界に絶対必要かと言われればそうではないと思っているけど、その反面で演劇に何度も救われてとりあえず今生きてますという感じの人間でもあり、理屈を取っ払えば「やっぱり演劇死んでほしくないよォ~~~!!!!!」の一念です。まあそのために自分にできることって現実的には何もないので、私が言う分にはほぼ子供の駄々と同じだなという感じもしてしまうのですが。

 

色々と未知の事柄が多い中、作品を上演するしない・観に行く観に行かないのどちらが正しいとも言えない(ので結果論になりがちな)状況ですが、私個人にとっては今回この作品を観られたことは一つの救いであり糧であり、本当に有り難いことだなと思います。

舞台演劇という形態は非常に儚いものです。あの魂に焼き付くような、心臓が溶け落ちるような瞬間をどれだけ留めておきたいと願っても、それが形に残ることはなく、同じものを観ることも二度とできません。
ただそれは、相反するようですがその瞬間を自分の中に永遠に閉じ込めることと同義でもあると思っています。たとえ記憶が薄れて意識的に思い出せなくなったとしても記憶の底には沈んでいる(と信じている)し、何よりそれを観る前の自分に戻ることは絶対にないので。その意味で、人は瞬間を永遠に失いません。

この先どうなるにせよ、今ここにいる自分がその瞬間を閉じ込めた自分であることを幸運に幸福に思いますし、大きなリスクと恐怖を抱えながらもこの作品を上演し、それを与えてくれたキャストや関係者の方々に心から感謝しています。

 

*1:君「に」会いたい、の方が語感として自然な気もしますが、「に」は一方的、「と」は相互のニュアンスがあることを踏まえると、ウィリアムの思う「果て」はウィリアムが計画を遂行することとシャーロックが謎を解き明かすことの両方が達成された結果お互いが辿り着くものなので、君「と」会いたい、のほうが適している感もあります(助詞に細かすぎる)。

*2:「谷を歩む」ということのイメージを掴みかねてそのままググったら、旧約聖書詩篇23が出てきました。その中に「死の陰の谷を歩む」という文言があるそうです。
あなた(主)が私と共に在ってくれるから、死の陰の谷を歩むことも恐れません、というような一節。「死の陰」はヘブライ語の原文(?)を直訳すると「暗闇」になるみたいなので、(広義の)困難な状況という意味で取ってよいはず。
この詩篇では「主」を羊飼い、「私」を羊に例えていて、それを踏まえると「歩む」という動詞もしっくりくる気がします。

なおこれが歌詞の元ネタかは分かりませんし、門外漢がグーグル先生に質問しただけなので信用性についてはご容赦ください。
生まれて初めてヘブライ語見たしアルファベットぽさが一切なくて泣きました。グーグル先生の英語ヘブライ語間の単語の訳にどれだけの信憑性があるのかもわからないしなんか名詞変形してるよね女性名詞だから??語尾が変形しているのか??

*3:余談ですが、ホームズ作品で谷といえば「恐怖の谷」。モリアーティ教授が黒幕となっている事件を扱った長編です。めちゃくちゃ面白いので読んだことないという方はぜひこちらからどうぞ。

https://221b.jp/7-vall.html

著作権が切れた原作を有志の方が訳してくださっているものです)

この長編は二章立てになっており、一章がホームズの捜査・解決パート、二章がその事件の登場人物の過去(事件の背景事情)+一章の後日譚です。
「恐怖の谷」というのは二章の舞台であるバーミッサ・バレーのこと。その地はスカウラーズという団体が暴力と殺人で支配しており、その状況を登場人物たちが「恐怖の谷」と表現しています。

スカウラーズは大義ある組織というわけではなく、雑に言えば田舎のヤンキーがイキってるようなものなので憂モリのウィリアムがやっていることとは性質が違うのですが、状況だけ見れば英国もウィリアムが作る恐怖の谷と言えるのかもしれません。

ちなみにこの作品には、フレッド・ポーロックがホームズに情報を流しているという記述があります。憂モリでシャーロックと利害一致するのはルイスだよなと思っていたのですが(本気でウィリアムを死なせたくないと思うのなら、シャーロックを頼る他に方法がないので)、これを読んでいると原典リスペクトでフレッドもワンチャン?って感じがしてきて今後の展開が気になるところですね。
モリアーティ教授のおちゃめなホームズ煽りも見られるので、お時間のある時にぜひ読んでみてください。

哀しみのスキッド・ロウ(リトル・ショップ・オブ・ホラーズ感想)


リトル・ショップ・オブ・ホラーズ @シアタークリエ

 

3/23 (月) 夜 鈴木&妃海ペア
3/27 (金) 夜 三浦&井上ペア

 


・概観

映画等の予習ゼロで行きました。ブラックコメディ、楽しいホラーという感じ。テンポいいし分かりやすいし、曲が素敵でとても楽しい作品でした。家族や友達と観て、帰りにご飯食べながら楽しかったね~!!ってやりたい感じのやつ。

個人的には時世に引っ張られたのかよくそういうこと考えてるからなのか、貧困と生まれガチャの残酷さに視点が寄ってしまって、ずいぶん皮肉ですね……とわりと落ち込みながら帰りました(めちゃくちゃ楽しんだんですけど、それとは別枠で)。
最後にこの植物に気をつけろ、世界に広がって誰もを食っちまうぞ、同じことがどこでも起こるんだぞというようなことが歌われるけど、あれは嘘だよなあという気がしました。自己肯定感があったりモノを考える力があったり、もっと単純に金があれば、ああまで不幸な結末にはならない可能性が高いよ、たぶん。

最悪オリンとムシュニクまでの犠牲は仕方ないとして(というのもアレだけど)、そこで有り金持って逃げればよかったんですよね。そしたら少なくとも、好きな人とつつましく生きていく道はあったよなあ、と思ったりしました。まあ現実でこういうことが起こったとしても、たぶんこの作品と同じように最後までいっちゃうことが多いのかなあという気がしなくもないし、またそれがやるせないんですけども。

オードリーが下手の上段に立ったとき(喰われる前、「シーモアが心配」みたいなこと言って戻ってくるとこ)の、あの「あああああそれはあかんやつ……」って思わずにはいられない嫌な感じ、最高に好きでした。ホラー的フラグシーンを舞台演劇で見るとテンション超あがる。

 


シーモアとオードリー

貧しさによどんだ空気を吸って生きてる、きっとありきたりに愚かな人たち。
オードリーはシーモアを聡明だと言い、シーモアはオードリーを上品だと言うけど、どちらも食うに困らない世界の水準でいえば聡明でもないし上品でもないんですよね。聡明とか上品をみたことがなくて、空想のそれらの話をしているんだなあと。スキッド・ロウだけの中で、ビッグマックを食べられない者どうしでそれを言い合うの、いい表現の仕方だなあと思いました(完全に傲慢な言い方ですが)。
設定もセリフも同じですが、やっぱり役者さんによってそれぞれの人物像が全然違って楽しかったです。複数キャストの醍醐味、贅沢ですよねこれ。

 

鈴木シーモア
生まれ育ちに対して怒りや劣等感を持っている、やさしくて素直な情熱家。主体が常に自分にあるのが特徴的でした。明確に自分で決めて、自分で見殺しにする。あるいは殺す。オードリーⅡは彼にとって手段というか武器ですよね。オリンを喰わせたのはオードリーのため(オードリーを好きな自分のため)、ムシュニクを喰わせたのは保身のため。

印象的だったのはムシュニクに「息子になってくれ」と言われたところの曲です。突然の申し出に戸惑ったり利害の思惑を感じて苦い気持ちになったり、それでもやっぱり父親ができるのは嬉しくなってしまうという葛藤、痛々しさがとても繊細に表現されていて、大好きなシーンです。

鈴木シーモアはだいたいの言動がやさしいな~素朴~って感じなんですが、一本通ってる筋が「オードリーが好き」で、それに対する情熱たるや烈火のごとく、はっきり自分の意思で人を殺している。しかもその「好き」が単に「自分がオードリーが好き、オードリーが幸せなのがいい」でありそうなのがなんとも宇宙。説明が難しいんですけど、好きだから愛情を返されたらもちろん嬉しいけど、それが主軸ではなくて情熱の範囲が「自分がオードリーが好き」までで完結してるというか。そんな控え目ともいえそうな人なのに、それと暴力性が矛盾なく同居していて(おそらくその出所は劣等感でしょうが)、こんな精神のバランスで生きてる人いるんか???みたいな宇宙感あり、めちゃくちゃ危ない人じゃんと恐ろしくなりもしました。
ただ自己卑下はなはだしいオードリーにとっては良いパートナーな気がするし、オールオーケーではなくても現実的で、わりと健全なペアじゃないかなと思います。鈴木シーモアと妃海オードリーはうまくいけば幸せになれたと思うんですよね。そうはならなかったけれども。


妃海オードリー
自己肯定感がないために、わざわざ酷い目に遭っている女性。そしてそれが自分でわかっているのに全然まったくどうすることもできない、なぜなら自己肯定感がないから……みたいなどん詰まりにいる感じ。
これ観る人によってはズタズタになるんじゃないかというくらい、精神的なグロテスクさがありましたね。自己否定の先にジャストミートでオリンみたいなやつの餌食になってるあたり、そして自虐観念から離れる行動もしないあたり、世の中のどうしようもない女性代表選手か??みたいな(極論)。恋愛がらみじゃなくてもそういうの多かれ少なかれあるよね……私はそういうの忌避してきたんで本当のところは多分理解できてないんだろうけども。
妃海オードリーのつらいとこは、頭が芯までふわっふわなわけではなくて、中途半端に知性があるとこだなーと思いました。もうちょい知性をグレードアップできれば、もしくはだれか肯定してくれる人に流されればわりと普通に生きていけたと思うんですけど。性質的に簡単なのは後者ですかね。鈴木シーモアといっしょに生きていくっていうのは割とありそうな幸せルートだったのになあ……。

 

総じてこのペアは心理表現が細やかなのと、それぞれの人物像が作りこまれてたおかげでグロテスク度が高かったです。綺麗に丁寧にコメディーでコーティングされているんだけど、口に突っ込まれて歯で割ってみたら中身が超ブラック。笑った口が笑いきる前に歪むみたいなブラック具合。シュールでおぞましくて非常に好みでした。

 

三浦シーモア
卑屈で自意識こじらせた自己透明化マン。普通のいい人。オードリーⅡに振り回されてなすがままで、僕はこいつに酷い目にあわされてる被害者だ、くらいに思ってそう。
私はそういう自己透明化の考え方は嫌いなので、ハア~~~???オリンもムシュニクもあなたが喰わせたんですが??被害者面されても現実は変わらないし愚かさは免罪符にはなりませんよ??とか思ってたんですけど、最後に彼の脚が口の中に飲み込まれていくのを見てもう本当に信じられないくらいめちゃくちゃ悲しくなってしまって、愚かだから喰われてバッドエンドみたいな世界はいやだなと心底思いました。
だって彼の愚かさは彼の責任ではないんですよ。彼は単に、生まれ育ちに恵まれなかった平凡で善良な青年です。愚かだの賢明だの頭がいいの悪いの、そんなんみんなただの偶然じゃないですか。
板の上の姿から役者さんの性質がチラチラ見えるせいか、彼がそれなりの生まれ育ちならこうはならなかった、それなりの能力がありそれなりの人生が送れただろうな、というのを思い浮かべさせられてしまって、ハァーーーー世界が悪いです!!と思いました。とはいえ必要以上に肩入れしてしまってた気がするので、三浦シーモアにほだされたかなとも思うのですが。


井上オードリー
ムシュニク氏が評する通り、本当に頭がからっぽの女の子。思考というものを持たずに生まれた、ただの良い子。
果たして彼女は不幸だったのだろうかな。オリンにひどい扱いをされることの意味を、シーモアから向けられる好意を、どの程度理解していたんだろうか。痛い、痛くない、こわい、やわらかい、あたたかい、ほわっとする、なんかうれしい、みたいな感覚以上のものは彼女にはなかったんではないかと思う。

 

繰り返しになりますが、この二人が愚かで近視眼的でろくに思考もできないのは、彼らのせいではないんですよ。算数が苦手な人が、好きこのんで算数が苦手に生まれたわけではないのと同じです。向き不向きや性質は本人のコントロールできる範疇になく、自分でどうこうできるのは苦手を押して算数の勉強をするかしないかの行動選択だけ。そもそもその選択すら思いつかない、思いついても選択できないという環境もあるし、それもまたその人のせいではない。そしてどんなに愚かであろうが、彼らが幸せになれない理由になってはならないんですよね。
でもそんなのは理想論で、現実は二人とも泣いて叫んで口の中ですよ。このペアを観てて、私はそれがすごく悲しかった。

 

そんな風にいろいろ考えるんですけど、それでも普通に親がいて恵まれた環境で生まれ育った私には、結局すべてフィクションでしかないんですよね。もちろんこれから生活に困窮する可能性はあるんですけど、でも私の受けた愛情も教育も、安定した生活で育まれた性質や能力も持ったままなわけで、生まれながらにそれらがなかった人と同じには全然ならない。
そんな幸運な人間が語る悲しさなんてお笑い草だ、おとといきやがれ、と言われてるような気がして、さらに哀しくなったりしています。
これがスキッド・ロウなんだぞ、お前には永遠にわかるまい、と満腹のオードリーⅡに皮肉られてるみたいな気がする。

 


シーモアのキャストさん

鈴木さん
髑髏城以来初めてこういう鈴木さんを見たな、というのが一番の感想です。
鈴木さんは逆境であればあるほど素晴らしいな、ほんとうに。あの断固とした、絶対にやってやるみたいな感じがたまらなく楽しい。私のみたいのはこれ!!!だ!!!という。
歌のトレーニングに伴うものなのか、発声も滑舌も半年前と明らかに違ってびっくりしました。歌については私はよくわからんのですけど、歌というより芝居を歌でしている感じというんでしょうか、芝居コマンド連打!!!!圧倒!!!!いわゆる歌でなくてもヒットヒットヒット3コンボKO!!!!みたいな。
いんぷろで話に出た時から感じてはいたけど、並々ならぬ思いと努力がこれを作ってるんだなと感じて、また頭が下がるしかない思いです。
そしてやっぱ声がいいというのは圧倒的な武器ですね。どんな作品みてても思うけど、歌がどうあれ声がいいとその時点でそれらしさが出るなと思います。

それにしても鈴木さんの芝居の強制想起力とモチーフ力はどんどん緻密に強力になっていきますね。非言語表現の鬼かよという感じなんですが、あれってどうやって養う力なんでしょう。やっぱり観察と再現と俯瞰かなあと思うのですが、興味の尽きないところです。


三浦さん

三浦さんの魅力である特徴的な身のこなしを封印してたので、身体動かせる人ってそっち方向にもコントロールできるんだ!?と思いました。私は三浦さんの動きを止める前0.3秒の空気感がすごく好きなのですが、それがまったくなかったので大満足(役柄的にその0.3秒の魅力があったら変なので)。それでも妙に止め位置が美しかったり回転すると滑らかさが残ってたりというところが稀にあり、それもまた楽しかったです。動き自体はともかく、随所に見える関節のしなやかさみたいなものはどうしても隠しがたいですよね。

個人的に三浦さんから前述のようなシーモア像が出てきたのは意外でした。
もっと単純に、純粋で自信なさげな感じのシーモアになるのかなと思っていたので。
スクールカースト低そうな(言い方)身体的しぐさやバーバルコミュニケーションの型を参考にされて、それが結果的にあの自己透明化感を醸し出すことにつながったのかなーと思ったりしますが、なんにしても想像してなかったものを出されるのは楽しいですね。うれしい。

そして(これ公開するのが遅すぎてだいぶ前になりますが)先日は21歳のお誕生日おめでとうございました。
私は三浦さんがいつか、動きひとつで情景や温度やにおいまで描ける役者になると確信しているので、引き続きのお仕事が楽しみです。そしてそれは私の勝手な期待なので、それとは全く関係なく三浦さんがいつでもどんなことでも、やりたいことをやりたいようにやれるよう祈っております。

 

・まとめ

内容的にシーモアとオードリーの話ばっかしてしまったんですが、楽しかったのはなによりその二役以外の役者さんのお芝居のおかげだな~!!と思います。作品ってメインどころ以外の方たちが支えていて、総合的な満足度ってその方々のお芝居で決まると思ってるんですけど、すごくふくふくした満足顔で劇場を出ることができました。良い作品でした。本当に。

 

絶対にもっとたくさんの人たちに観られるべき作品だった。一瞬の夢みたいになってしまったことがひたすら悲しくて悲しくて仕方ないんだけれども、でもなんか世界も社会も丸ごといろいろありすぎて、そしてこれからも色んなことがあるだろう中で何を祈ればいいのかもよくわからない。ので、ともかくこの公演を観られた巡りあわせと、この作品を作ってくださった方々に感謝します。劇場にいる間、私はすごく幸せでした。何かあるごとにいつでもこうやって誰かに幸せにしてもらって生きているんだなあと実感するし、私もいつか何かの形で誰かに、それを返せればいいなと思います。

 

 

生まれたから生きている 舞台カプティウス 感想

2/21 (金) 夜 @高田馬場ラビネスト 舞台カプティウス

 


・概要


安西慎太郎さんの一人芝居。しかし説明するのであれば85分の長ゼリフ、といったほうが分かりやすいです。本当に85分喋りっぱなしの動きっぱなし、しかも舞台はセンターステージ。舞台にいるのひとりですよ、ひとり。度胸というのか覚悟というのか、よくこんなことやろうと思ったな、と思います。やろうと言った方も実際やる方もすごい。

内容としては、太宰治の『人間失格』の読書感想文。人間失格っていうけど、では人間とは何か?失格って何?勝手に失格とか言って無責任では??というようなことを、舞台上の男が自分の人生を振り返りつつ延々思考し独白する85分間です。

 


・男のこと


彼の人生を軽くまとめると、野球で輝いた幼少期、ケガで野球はやめたが人気者になった中学時代、目立たなくなってしまった高校時代、人に喜んでもらいたくて女性と遊ぶ集まりを主催する大学時代、そこで出会った女性への憧憬と一緒にいる幸せ、卒業後ベンチャーに就職して最初は上手くいくが倒産、再就職できず金がなくなってその女性と別れ、父親が働かずに借金してて母の病気を治療してないことが判明、女性とよりを戻すが他の男と関係を持たれていて首を絞めてしまいました(もうちょい背景事情あり)というところ。

話を聴くに、男は理屈屋で神経質でプライドが高く理想家、潔癖で高潔といった印象です。どの要素も(他人事としてみる分には)よくある範囲で、よくいる人間の範疇。ただしまったく中央値ではない。

人物描写では、中学校のときだったかにキックボクシング練習して父親のスネ蹴るのがすごく好きでした。客席の雰囲気的に笑い声出しづらかったんで黙ってましたが(あれ笑っていいとこでは)、ほほえましくてマスクの下でめっちゃニコニコしてました。喜劇性という意味でも良いシーンだし、子供が親を倒そうとするのはよいものです。まあ仕事辞めてたくせにそれを借金して隠してたあたり(辞めたかクビになったのか倒産したのかはわかりませんが)、父親も怠惰というよりは変にプライドの高い人間だったことが窺え、彼もその血を引いてしまったのかなとどんよりするところではあります。子供って、なんか勝手に親みたいになっちゃうもんなんですよね。腹立たしいことに。

 


・『人間失格』についてのスタンス


読者が多少なりとも共感しうる人物を描いておいて、人間失格の烙印を押すとは何事だという憤りが主軸。そんなこと言われたら自分が失格になってしまうじゃないか、という忌避感じみたものがその背景にあるんだろうなと思います。
一方で『人間失格』の主人公・葉蔵と自分を比べて、自分はそこまで堕ちていないという自負もあるようでした。誰でもつらいことはあるが、あそこまでいってしまうかどうかは個人の選択いかんによるもので、自分もあいつと同じく入院もしたが大したことだと思ってないし、薬なんかやらない、あいつとは違う、という意識が強め。
なんかそういう、心当たりがあるからこそ「いやそんなやつとは違うし!」ってなるところ、私の中でもあるあるなので見ててちょっと気まずかったです。
ともかく、個人的には彼と葉蔵は人間の系統が違うだろと思ったので、\そんなことないよ/\大丈夫だよ/とエールを心の中で送信していました。序盤に食が好きと言っていたのもその描写かなという気もします(葉蔵は食に楽しみを見出せなかったという話があったかと)。と言いつつ系統は違っても入る大枠は同じかもな、とは思いますが。

 


・そもそも人間とは?


人間失格』というなら人間とはなんなんだ、という話。彼にとって定義とは非常に重大なもののようで、導入部分でも舞台装置であるバースツール(バーカウンターとかにあるスツール)を例にとって事物や事象の定義の話がひとくさりされていました。

ここでいう人間とはホモサピエンス的な定義の「人間」ではなくて、世間様が普通だと思う人、くらいの意味での「人間」でしょうね。どんな人間ならど真ん中の人間たる人間なんだという話。彼は「人間」像というのは各個人が限られた数の人に会った経験から醸成されたものにすぎず、いわば偏見のことなのだと考えます。母集団に偏りがあるから、という指摘はごもっとも。『人間失格』の、「世間とはあなたではないですか」を思い起こさせもします。

彼は(恋人の首絞めたりなんだりもあって)自分は宇宙人ではないか、人間ではないのではないかという不安に苛まれていたことがあります。そんな時に知能検査で障害(という表現だったか曖昧)がある人間の特徴が出ていると診断され、つまりは障害なり病を患っているだけでちゃんと「人間」だったのだ!と大いに安堵した、という話がありました。

私からすれば、世間様の定義から離れるよりも、中央値から離れた情緒を持っているよりも、そこで安堵するほうが宇宙人じみているなという気がします。そもそもその検査は、「人間じゃない」という結果は出ないしね(そういうことを言ってるわけじゃないのはわかりますが)。
別に宇宙人でもそれ自体に問題はなくないか、と私なんかは思ってしまうんですけど、それは私自身がいわゆる世間様の「人間」から離れている自覚がないからそんなことを思うんだろうな。宇宙人かもしれないと思うことは、想像だにしないほど不安でよりどころがないものなのかもしれない。その知能検査が「1~2万円のテスト」なんて説明がされていたのも物悲しさがありました。1万円の人間の証明

 


・生きましょう


こういう暗澹とした話から、突然論調がメッセージ調になり、熱弁になり演説になり、とにかく生きましょう、という話に繋がっていく。いきなり何言ってんだ、そんなメッセージに繋げるの?という気持ち悪さがあったんですが、彼が嘘をついてるとか耳障りのいい正論を口にしたくて言ってるという気もせず。本気なんですよ。本気だけど、その本気の中身が字面通りではない感じ。

私はなんとなく、自分の理想像を必死に言い募っているのかなあという気がしました。振り返ってみればこの独白にはずっと虚飾性があるというか、自らの人生を語りながら外の枠を飾り立てて自己防衛している感があり、この人たぶん自分のこと好きじゃないんですよ。自己保身的な自己愛はあるけど、好きじゃないし価値があるとも思ってない。
どんな人生であろうが生きるんだ、と心底思っているというより、そう「言いたいと」思っている、心からそう言える自分でありたいと思っている、みたいな、つまり理想論なのかなと。だってそれまでの振る舞いを見る限り、彼が「生きましょう」という言葉を現時点で実践できそうには見えなかったので。

あとメッセージと表情(というか全身の雰囲気含めた様相)もなんとも奇妙な取り合わせに感じたんですよね。言葉の熱量も真剣さも気迫も間違いなく本気だったけど、生きようとしてる人間の顔には見えなかった。今までで一番病的で浮かされたようで閉じこもっていて切羽詰まっていて、生命の危機でも迫っているのかというくらいで。あの顔が示すのが生きることなら、それはどんな恐ろしいことなのだと思うくらいに。でも生きようという理想は嘘には聞こえず必死も必死で、だから私は、彼はまだ生きられる段階ではないけどそこから出たくて藻掻いている最中なのだ、ここが底で遠い遠い向こうに生きる未来があるのだ、と思ったんですよね。

 


・ラストの話


なのであのラストが完全に不意打ちで、は??なんで粒ガム飲んでんの??って感じでした(包み紙があったっぽいのでとっさの発想がガムでした……)。
実際どういう描写なのかは置いといて、観たときの直感としては薬での衝動的自死で、おおおお前さっきまで他人に生きましょうだのなんだの言ってたのに何してんの!?では失敬ってそういう失敬ですか太宰のこと言えなくない???ってなりました。まあ私は外で座ってるだけの幽霊なのでいいけど、自分にした期待の責任くらい自分でとってやれよ、お前ここからまだ、まだあるだろ、と。
どういう心理機序で生きよう演説が出たにせよ、単なるきれいごとではなく、確かに生きることは願われていて切に望まれていたんですよ。なのにぷっつりと終わってしまった、そんな感覚でした。


・3×4の四方の話


この舞台のステージは白地に黒線で3×4マスが描かれた長方形で、天井にもそれを鏡のように映し出せるアルミみたいなものが貼ってありました。それを見て閉じ込められてるなあと思ったのですが、彼はそこから出られたんでしょうか。彼が生きているにせよ死んだにせよ、私はずっとあの中にいるんじゃないかなという気がしています。
というのも、この独白には彼自身以外は登場しないんですよ。ワードとしては父母や悪友や恋人が出てくるけど、その人たちの思いのことや、彼らとの繋がりでどうこうという話は出てきません。恋人については多少言及がありますが、あれは男が彼女に自我を拡張しているだけなので他者の話とは言えないように思います。この独白にあるのは自分のことだけ。それがあの床と天井で作られた四方の表すものなのかなと。

そもそもあの四方の外って、彼にとってほんとに存在したんですかね。あの3×4の外には、ただなんにもない真っ暗だけが広がっていたような気がする。そこに向かって生きようと叫んでいるとき、彼のあの眼はなにを見てたんだろう。

 

 

・それでも


という感じで私のこの作品の解釈自体はそんなに明るいものではないのですが、それでも私にとっては温かいものが残る作品でした。結果として生きてようが死んでようがそれは問題ではなく、生きましょうという理想や期待があったこと自体が私には大事なことに思えたので。
生きたいからって生きられるわけではないし、死にたくなるのが怖くても死にたくなるし、なんであれ死ぬときは死ぬ。結局生きているかどうかなんてたまたまで、そこにいいも悪いも正解も不正解もないですからね。

 


・生まれたから生きている


この言葉は私の中の標語というか、ひとつの真理として自分の中に持っているものなので他人の口から出てきたことにぎょっとしたのですが、それはともかく私の中では「仕方ないから生きてる」というニュアンスなんですよね。死なないから生きてる、と言い換えても差し支えないような。
でも彼の口から出たのは、(真実はどうあれ言葉としては)「うるせえ俺は生まれたんだから生きてるんだよ文句あるか」の意味合いに近かったので、まるで新しい言葉を聴いたような感覚でした。新発想、絶対的な感覚の違い、頭の中に稲妻ピシャーン!!みたいな。私と真反対でポジティブ、方向性が正。そういう概念がこの世に存在することはいちおう知ってはいたんですが、初めて心から、そっちのほうがよさそうだなって思いました。死なないから生きてるより、文句あるか!って言ってるほうがなんかよさそうだなって。

どんだけ虚飾があろうと(それ自体が彼の体現ではある)、辛いことのほうが多いし世界はひどいし理不尽だが生きましょうって言われるのは、私にとってはすごく価値のあることでした。生きましょうなんて、そうそう他人から言ってもらえるもんではないんですよ。それも目の前で、自分の魂削り落としてるんじゃないかというくらいの真剣さで。

マス目のように引かれた黒線を行ったり来たり辿ったり辿らなかったり、白目の淵の血管とかたまに四十代にも見える眉間の相貌とか、そういう目の前にいる一人の人間が、生きようと口にしたということの重さ。私がこの作品を観て持って帰ったのはそれだったかなと思います。

 


・全体感想


道化、悪友、酒と女と経済的困窮みたいな『人間失格』の主人公の人生のモチーフと、役者自身のモチーフを混ぜてこの舞台上の男が成り立っていて、しかしその二人とは別人、というのが面白かったです。

なんとなく全体的に若い方の作品だな、という印象を受けました。『人間失格』自体、壮年の人間が書いたわけではなく著者は三十代後半、主人公は二十七。演者の安西さんが二十六だそうで、脚本演出の方はご年齢を存じ上げないので違ってたらすみません。私もアラサーなのでそれ以上の年齢になったときに何を考えるかわからないですが、たぶん親くらいの年齢の方が作ったらこのニュアンスの作品にはならないのではないのかなーと親と話したりする内容から思い、そういう意味で今しかない作品でもあるのかなと思いました。本当になんとなくの感覚ですが。 

ほぼ思考と同スピードで話されるので、その場その場で脳に落とし込むので精一杯だったなとこれを書きながら実感しています。ただ個人的には、あとからこねくり回すというよりはどちらかというとその場の直感、感覚で楽しむ作品であるような気がするので、自分の感覚との一期一会でいいのかなとも思います。

総じて色々考えちゃう人には思うところある作品ですよね。ぼーっと生きてりゃ苦しまなくていいのかもしれないですけど、でも考えてしまう人間になるかどうかって自分では選べないし。思考って呼吸みたいなものなので、考えるのを止めるのも難しい。
そうやって考えてしまう人間が、のたうち回って本当でも嘘でも生きようと言っているのは私にとって暖かいことで、でも人間という重いものが心臓に溜まるような作品でした。

 

安西さんのお芝居のファンとしては、大好きなあの安西さんの音調に85分間全力集中できるのは至福でしたね。やっぱりこわい人だなあ、という印象です。眼が怖いというか、眼でも眼力でもなく存在の力みたいなのが強烈。なんであれ私は役者はこわいひとが好きなので、今後も安西さんのお芝居を観るのをとても楽しみにしています。ぞっとするような喜劇とか見てみたいんですよ。安西さんに似合う気がします。