オリビエートの坂の上

観劇のメモを投げ込む予定です

幼稚で不出来な大人たち(舞台 時子さんのトキ 感想)

 

9/20(土) ソワレ 時子さんのトキ
@大手町よみうりホール

 

 
概観

とても良い作品でした。役者さんが皆上手くて楽しかったです。
それぞれのメインの役はもちろん、ちょっとした兼ね役に味があって素敵。パチ屋のお姉さんがめちゃくちゃ好きです。小さい頃の登喜も、会長もその奥さんもギョニソおばさんも自然な実在感がありました。


印象的だったのは登喜の初出であるかくれんぼのシーンでしょうか。内容的にというより、序盤のあのシーンだけで今後どういう話が展開されるのか大体分かるのがいいなと。明言されるのではなく演技だけで分かるので楽しいです。次にもう少し成長した登喜が出てくるところからは登喜を鈴木さんが演じていますが、その時点でもう既に一人二役であることの意味は提示されているわけで、そのあっさり感が好みでした。

 

主演の高橋さん、初っ端がモノローグでかつ長文なのに頭にするっと入ってきたので、信頼して観劇をスタートすることができました。時子さんとしての振る舞いがとても自然で、本当にこういう人いるよね、という感じがします。


鈴木さんについては、翔真の字面上のキャラ設定になさそうなとこが鈴木さんっぽくて面白いバランスだなと思いました。時子が子供と話してる時の所在のなさとか、台詞喋ってないときの表現が好きです。電話切って寝っ転がったときに説明セリフを待たせず「これ自分ちのベッドなんだな」と分からせるあたり、描写パワーも健在。

 

総じてこのお二方が演じていたから、このレベルの温度感で楽しかった〜とか言って劇場を出られたのかもな、と思います。後で書きますが、時子も翔真も割とろくでなしなので、演じる方/演じ方によっては腹だけ立てて帰ることになってたかも(それはそれでいいんですが)。お二人の時子と翔真には、こういう主題を扱うにも関わらずジメジメした汚らしさやいやらしさがなくて、全体的にさっぱりしていました。それがいかにもリアルな人たちを描く中での抜け感になっていて、絶妙な塩梅だったなと思います。

 

演出として、消毒やら検温やらというコロナモチーフが普通に出てきているのも興味深かったです。これからの作品は、何も言わずともこういうモチーフだけで2020年以降であることを示せるんだな、と思うとなんだか世界の不可逆性を感じますね。

 


内容について

ざっくり言うと、幼稚な大人二人の現実逃避の顛末、といった感じです。

 

時子

徹頭徹尾、自分のことしか頭にない人に見えました。自分が大事で大事で絶対傷つきたくない人。それが全てに優先しすぎて、子供のことすら極論どうでもいいのでは?と思えるレベル。

茶化したり引きさがるような態度を取りがちなのは相手のことを慮ってるからではなくて、自分が傷つきたくないからですね。相手のことがそもそも頭にないので、人の話を聞いたり理解しようとする姿勢もなし。精神的な余裕のなさ、あるいは寂しさが輪をかけていたのかもしれませんが、たぶん元々そういう性質なんでしょう。

 

時子にとって、翔真は明確に息子の代替物です。たまたま出会った青年が、母親ごっこをして満足するのに都合がよかったんですね。翔真になにかしてあげることで息子を放置している罪悪感を減らせるし、現実逃避もできるから。その上、所謂「推し」に対する「ファン」としての気持ち/行動なので息子のこととは関係ないですよ~息子の代わりにするとか酷いことしてませんよ~という言い訳もたつわけです。自分に対しても他人に対しても。

翔真に迫られた時に拒否したのは、わが子の代替物にしているのが自分でも無自覚に分かっているので恋愛対象としては認識エラーが出る、というのもあると思いますが、翔真がフィクションの存在だから、という理由もあるのかもしれません。逃避先としてハマっているドラマの登場人物に告白されても「えぇ......そうじゃなくて……」ってなる、そんなイメージ。時子自身も終盤、翔真との日々をファンタジーの中にいたと振り返っています。

 

白いメルヘンなセットの中で登場人物もみんな白い服を着ている中、時子だけに色がついているのはその「ファンタジー」の表現だろうと思いますし、翔真を息子の代わりにしていたのかも、と気づいて目が覚めると息子にも色がつく、というのが時子のファンタジーの終わりを示しているのでしょう。

 

この表現に見られる時子の自己認識が、私は非常に自分勝手に感じました。時子にとっては「逃げなくても息子には嫌われてなかったハッピー!馬鹿なことしてたわ〜やっぱ現実が一番よね!ファンタジー終わり!」って感じなんでしょうけど、そのファンタジーと称した現実逃避に他人を巻き込んだことに対してさすがに無自覚すぎるのではないでしょうか。他の人はともかくとして、少なくとも息子に対して母親たる自分の行動がどのような影響を与えたのかはよく考えて向き合う責任があるように思います。

そういった自分のことしか頭にない時子の特性については、本人よりも子供である登喜のほうが理解しているように見えました。登喜が言った「父親に付いていくことにした理由」は嘘ではないけど全てでもなく、母親が傷つかないであろう理由だけを開示した、というのが本当のところかなと思います。序盤のかくれんぼのシーンを見て、これは親が子供に遊んでもらってるんだなと思ったのですが、十年やそこら経ってもなおその構図は不変というわけですね。

 

それにしても時子は息子に恵まれたな、と思います。私が時子の子供なら、たぶん距離を置いているので。いくら優しくしようとしても、「一人暮らしするなら家事しに行ってあげようか〜」とか言われた瞬間にポキっと折れますね。離婚したせいで本来親がやるはずの家事負担を子供に負わせた経緯があるのに、そんな無神経なこと口から出します?普通。戦慄のセリフでした。

 

私から見れば時子は人の親に足るほど精神的に大人ではないし、相変わらず自分だけしか登場しないファンタジーの中に生きているように思えます。

 

そして時子自身がそんな自分をどう捉えているのかというと、七割無意識で三割は気づいてるけど気づいてないことにしてる、といったところじゃないでしょうか。本人の表面的な認知はともかく、どこかで自覚があるんだろうなというのは挙動からも推測されます。例えば会長さんへの対応を他の人より甘くしてたのは、金を借りる時に使える人だと思ってたからでしょうし。

 

ここからは私怨ですが、こういう人、周りにいらん迷惑をかけて引っ掻き回すくせに本人はあんま損しないんですよね。
時子も自分からは何もしてないのに捨てたはずの金が戻ってくることになるし、貢ぎ先の男と縁も切れるし、流れで息子との関係も改善するしで万々歳じゃないですか。

他人を振り回して害を与えながらもなぜか上手く生きていけて、でも自分では大変なのよ辛いわみたいな顔してる人、いるな~って感じ。
羨ましいのできらいです。

 

翔真

怠惰で受動的で卑屈。これまたよくいそうなタイプです。
才能がないのも努力をしきれないのも覚悟がないのも、ぜんぶ自分で分かっててダラダラとミュージシャン志望の真似事をしている。自分の甘さや駄目さを自覚してはいるけど、変わろうとしないし変わりたくないし現実に向き合いたくない。
他人が強制的に介入してきてやっと動けるレベルに怠惰。NPOの人が来ることを事前に伝えたらフェアじゃない、なんて彼は言いますが、そもそもその他力本願は何?って話なんですよね。なんで押しかけられた時子からの電話待ってんの?という。

ネガティブで卑屈だから怠惰に拍車がかかってるのかなという気もします。自分なんかどうせダメなんだから頑張っても意味がない、ってやつですね。だからといって他人から金を騙し取るような悪人になりきることもできない。ダラダラ他人の金使いこんでパチンコ打ってても、全然楽しくなんかなくて苦しいだけだったでしょう。

 

そもそも翔真は、別にミュージシャンになりたいわけではなかったのではないかなと思います。田舎の農家の息子っていうのがしみったれたもののように思えて、それより華やかな「何か」になりたくて都会に出てきただけで。
そんな彼にとって時子さんは渡りに船の害でしたね。他人の金と表面だけの期待に流された結果、何年もの時間を失って今後は借金返済生活。きれいな自業自得です。

 

時子に恋人じみたことをしようとしたのも結局、「何者か」になりたさが高じた結果だと思います。実家を出るときになりたかった「なんかすごい人」になれなくて劣等感まみれの中で、せめて誰かの特別な人になりたい、というような、これも一種の逃避ですね。中途半端な返報感覚がそれを後押ししたところもあったでしょう。

 

それでも最後は自分から言い出してあの修羅場に来て、ちゃんと実家に帰って10万円を返し続けているところを見ると少しずつ変われているのかもしれないなと思います。農家跡継ぎ兼アルバイターみたいな地味な肩書きでも何者かであることに変わりはないし、実家にいれば少なくとも親の子供ではいられるわけですからね。翔真は何となくそれはそれで納得して生きていきそうな気がします。何年も無為な時間を過ごした後でもなお夢を見るようなバイタリティーがある人間には見えないし、それが悪いことではなく地に足をつけて生きている地味な日々も価値があるものだと、そのうち思えるようになるのではないでしょうか。

 

翔真は天然で情状酌量の余地をつくるあたり小狡いし、憎めなさが時子と似ているなと思います。


総括

メインの二人について散々なことを言いましたが、じゃあ他の周りの人が立派な人間で全く瑕疵が無いかというとそうではないんですよね。時子の元夫は理由はどうあれ妻と向き合わずに一時家庭を放り出したDV野郎だし、関西弁の女の人も旦那と子供がいるのに黙って他人に金貸してたわけで。みんな完璧ではないし、どこかしら不出来なところはあるわけです。

 

それに時子が登喜や翔真に対して持った気持ちも、翔真が時子に持った気持ちも、全部偽物でなんの愛情もなかったのかと言われると、そこまでは言いたくないなとも思います。人間、誰もがダメなところを抱えながらもお互いに関わって生きていくしかないのだから、すねに傷のない気持ちだけを愛情と定義するのは範囲が狭すぎるでしょう、きっと。
(もちろん、だからといって自身の問題点から目を逸らしたり無かったことにするのは不誠実だと思いますが)

 

本作で登喜が母親のダメさを分かっていてなお母親に愛情を持っているのは、不出来でもぼちぼち生きてれば何とかなっていくもんですよ、というような温かさなのだろうな、と思います。

 

 

 

 

 

 


それにしてもこの作品は観た人によってだいぶ見え方が違うだろうと思うので、こうして思ったまま書き連ねるのは気まずさがありますね。他人は自分の鏡というか、人間は自分の脳を通してしか他人を捉えることはできないので、人様のあり方をどうこう言うことは自分の価値観や性格の暴露でもあるわけです。

しかしまあこんな個人的な趣味の記事で取り繕ったり予防線を張ったりしても仕方がないので、何年後かの多少は成長しているであろう自分が違う感想を持つことに期待して、今の自分をここに置いておくことにします。