オリビエートの坂の上

観劇のメモを投げ込む予定です

哀しみのスキッド・ロウ(リトル・ショップ・オブ・ホラーズ感想)


リトル・ショップ・オブ・ホラーズ @シアタークリエ

 

3/23 (月) 夜 鈴木&妃海ペア
3/27 (金) 夜 三浦&井上ペア

 


・概観

映画等の予習ゼロで行きました。ブラックコメディ、楽しいホラーという感じ。テンポいいし分かりやすいし、曲が素敵でとても楽しい作品でした。家族や友達と観て、帰りにご飯食べながら楽しかったね~!!ってやりたい感じのやつ。

個人的には時世に引っ張られたのかよくそういうこと考えてるからなのか、貧困と生まれガチャの残酷さに視点が寄ってしまって、ずいぶん皮肉ですね……とわりと落ち込みながら帰りました(めちゃくちゃ楽しんだんですけど、それとは別枠で)。
最後にこの植物に気をつけろ、世界に広がって誰もを食っちまうぞ、同じことがどこでも起こるんだぞというようなことが歌われるけど、あれは嘘だよなあという気がしました。自己肯定感があったりモノを考える力があったり、もっと単純に金があれば、ああまで不幸な結末にはならない可能性が高いよ、たぶん。

最悪オリンとムシュニクまでの犠牲は仕方ないとして(というのもアレだけど)、そこで有り金持って逃げればよかったんですよね。そしたら少なくとも、好きな人とつつましく生きていく道はあったよなあ、と思ったりしました。まあ現実でこういうことが起こったとしても、たぶんこの作品と同じように最後までいっちゃうことが多いのかなあという気がしなくもないし、またそれがやるせないんですけども。

オードリーが下手の上段に立ったとき(喰われる前、「シーモアが心配」みたいなこと言って戻ってくるとこ)の、あの「あああああそれはあかんやつ……」って思わずにはいられない嫌な感じ、最高に好きでした。ホラー的フラグシーンを舞台演劇で見るとテンション超あがる。

 


シーモアとオードリー

貧しさによどんだ空気を吸って生きてる、きっとありきたりに愚かな人たち。
オードリーはシーモアを聡明だと言い、シーモアはオードリーを上品だと言うけど、どちらも食うに困らない世界の水準でいえば聡明でもないし上品でもないんですよね。聡明とか上品をみたことがなくて、空想のそれらの話をしているんだなあと。スキッド・ロウだけの中で、ビッグマックを食べられない者どうしでそれを言い合うの、いい表現の仕方だなあと思いました(完全に傲慢な言い方ですが)。
設定もセリフも同じですが、やっぱり役者さんによってそれぞれの人物像が全然違って楽しかったです。複数キャストの醍醐味、贅沢ですよねこれ。

 

鈴木シーモア
生まれ育ちに対して怒りや劣等感を持っている、やさしくて素直な情熱家。主体が常に自分にあるのが特徴的でした。明確に自分で決めて、自分で見殺しにする。あるいは殺す。オードリーⅡは彼にとって手段というか武器ですよね。オリンを喰わせたのはオードリーのため(オードリーを好きな自分のため)、ムシュニクを喰わせたのは保身のため。

印象的だったのはムシュニクに「息子になってくれ」と言われたところの曲です。突然の申し出に戸惑ったり利害の思惑を感じて苦い気持ちになったり、それでもやっぱり父親ができるのは嬉しくなってしまうという葛藤、痛々しさがとても繊細に表現されていて、大好きなシーンです。

鈴木シーモアはだいたいの言動がやさしいな~素朴~って感じなんですが、一本通ってる筋が「オードリーが好き」で、それに対する情熱たるや烈火のごとく、はっきり自分の意思で人を殺している。しかもその「好き」が単に「自分がオードリーが好き、オードリーが幸せなのがいい」でありそうなのがなんとも宇宙。説明が難しいんですけど、好きだから愛情を返されたらもちろん嬉しいけど、それが主軸ではなくて情熱の範囲が「自分がオードリーが好き」までで完結してるというか。そんな控え目ともいえそうな人なのに、それと暴力性が矛盾なく同居していて(おそらくその出所は劣等感でしょうが)、こんな精神のバランスで生きてる人いるんか???みたいな宇宙感あり、めちゃくちゃ危ない人じゃんと恐ろしくなりもしました。
ただ自己卑下はなはだしいオードリーにとっては良いパートナーな気がするし、オールオーケーではなくても現実的で、わりと健全なペアじゃないかなと思います。鈴木シーモアと妃海オードリーはうまくいけば幸せになれたと思うんですよね。そうはならなかったけれども。


妃海オードリー
自己肯定感がないために、わざわざ酷い目に遭っている女性。そしてそれが自分でわかっているのに全然まったくどうすることもできない、なぜなら自己肯定感がないから……みたいなどん詰まりにいる感じ。
これ観る人によってはズタズタになるんじゃないかというくらい、精神的なグロテスクさがありましたね。自己否定の先にジャストミートでオリンみたいなやつの餌食になってるあたり、そして自虐観念から離れる行動もしないあたり、世の中のどうしようもない女性代表選手か??みたいな(極論)。恋愛がらみじゃなくてもそういうの多かれ少なかれあるよね……私はそういうの忌避してきたんで本当のところは多分理解できてないんだろうけども。
妃海オードリーのつらいとこは、頭が芯までふわっふわなわけではなくて、中途半端に知性があるとこだなーと思いました。もうちょい知性をグレードアップできれば、もしくはだれか肯定してくれる人に流されればわりと普通に生きていけたと思うんですけど。性質的に簡単なのは後者ですかね。鈴木シーモアといっしょに生きていくっていうのは割とありそうな幸せルートだったのになあ……。

 

総じてこのペアは心理表現が細やかなのと、それぞれの人物像が作りこまれてたおかげでグロテスク度が高かったです。綺麗に丁寧にコメディーでコーティングされているんだけど、口に突っ込まれて歯で割ってみたら中身が超ブラック。笑った口が笑いきる前に歪むみたいなブラック具合。シュールでおぞましくて非常に好みでした。

 

三浦シーモア
卑屈で自意識こじらせた自己透明化マン。普通のいい人。オードリーⅡに振り回されてなすがままで、僕はこいつに酷い目にあわされてる被害者だ、くらいに思ってそう。
私はそういう自己透明化の考え方は嫌いなので、ハア~~~???オリンもムシュニクもあなたが喰わせたんですが??被害者面されても現実は変わらないし愚かさは免罪符にはなりませんよ??とか思ってたんですけど、最後に彼の脚が口の中に飲み込まれていくのを見てもう本当に信じられないくらいめちゃくちゃ悲しくなってしまって、愚かだから喰われてバッドエンドみたいな世界はいやだなと心底思いました。
だって彼の愚かさは彼の責任ではないんですよ。彼は単に、生まれ育ちに恵まれなかった平凡で善良な青年です。愚かだの賢明だの頭がいいの悪いの、そんなんみんなただの偶然じゃないですか。
板の上の姿から役者さんの性質がチラチラ見えるせいか、彼がそれなりの生まれ育ちならこうはならなかった、それなりの能力がありそれなりの人生が送れただろうな、というのを思い浮かべさせられてしまって、ハァーーーー世界が悪いです!!と思いました。とはいえ必要以上に肩入れしてしまってた気がするので、三浦シーモアにほだされたかなとも思うのですが。


井上オードリー
ムシュニク氏が評する通り、本当に頭がからっぽの女の子。思考というものを持たずに生まれた、ただの良い子。
果たして彼女は不幸だったのだろうかな。オリンにひどい扱いをされることの意味を、シーモアから向けられる好意を、どの程度理解していたんだろうか。痛い、痛くない、こわい、やわらかい、あたたかい、ほわっとする、なんかうれしい、みたいな感覚以上のものは彼女にはなかったんではないかと思う。

 

繰り返しになりますが、この二人が愚かで近視眼的でろくに思考もできないのは、彼らのせいではないんですよ。算数が苦手な人が、好きこのんで算数が苦手に生まれたわけではないのと同じです。向き不向きや性質は本人のコントロールできる範疇になく、自分でどうこうできるのは苦手を押して算数の勉強をするかしないかの行動選択だけ。そもそもその選択すら思いつかない、思いついても選択できないという環境もあるし、それもまたその人のせいではない。そしてどんなに愚かであろうが、彼らが幸せになれない理由になってはならないんですよね。
でもそんなのは理想論で、現実は二人とも泣いて叫んで口の中ですよ。このペアを観てて、私はそれがすごく悲しかった。

 

そんな風にいろいろ考えるんですけど、それでも普通に親がいて恵まれた環境で生まれ育った私には、結局すべてフィクションでしかないんですよね。もちろんこれから生活に困窮する可能性はあるんですけど、でも私の受けた愛情も教育も、安定した生活で育まれた性質や能力も持ったままなわけで、生まれながらにそれらがなかった人と同じには全然ならない。
そんな幸運な人間が語る悲しさなんてお笑い草だ、おとといきやがれ、と言われてるような気がして、さらに哀しくなったりしています。
これがスキッド・ロウなんだぞ、お前には永遠にわかるまい、と満腹のオードリーⅡに皮肉られてるみたいな気がする。

 


シーモアのキャストさん

鈴木さん
髑髏城以来初めてこういう鈴木さんを見たな、というのが一番の感想です。
鈴木さんは逆境であればあるほど素晴らしいな、ほんとうに。あの断固とした、絶対にやってやるみたいな感じがたまらなく楽しい。私のみたいのはこれ!!!だ!!!という。
歌のトレーニングに伴うものなのか、発声も滑舌も半年前と明らかに違ってびっくりしました。歌については私はよくわからんのですけど、歌というより芝居を歌でしている感じというんでしょうか、芝居コマンド連打!!!!圧倒!!!!いわゆる歌でなくてもヒットヒットヒット3コンボKO!!!!みたいな。
いんぷろで話に出た時から感じてはいたけど、並々ならぬ思いと努力がこれを作ってるんだなと感じて、また頭が下がるしかない思いです。
そしてやっぱ声がいいというのは圧倒的な武器ですね。どんな作品みてても思うけど、歌がどうあれ声がいいとその時点でそれらしさが出るなと思います。

それにしても鈴木さんの芝居の強制想起力とモチーフ力はどんどん緻密に強力になっていきますね。非言語表現の鬼かよという感じなんですが、あれってどうやって養う力なんでしょう。やっぱり観察と再現と俯瞰かなあと思うのですが、興味の尽きないところです。


三浦さん

三浦さんの魅力である特徴的な身のこなしを封印してたので、身体動かせる人ってそっち方向にもコントロールできるんだ!?と思いました。私は三浦さんの動きを止める前0.3秒の空気感がすごく好きなのですが、それがまったくなかったので大満足(役柄的にその0.3秒の魅力があったら変なので)。それでも妙に止め位置が美しかったり回転すると滑らかさが残ってたりというところが稀にあり、それもまた楽しかったです。動き自体はともかく、随所に見える関節のしなやかさみたいなものはどうしても隠しがたいですよね。

個人的に三浦さんから前述のようなシーモア像が出てきたのは意外でした。
もっと単純に、純粋で自信なさげな感じのシーモアになるのかなと思っていたので。
スクールカースト低そうな(言い方)身体的しぐさやバーバルコミュニケーションの型を参考にされて、それが結果的にあの自己透明化感を醸し出すことにつながったのかなーと思ったりしますが、なんにしても想像してなかったものを出されるのは楽しいですね。うれしい。

そして(これ公開するのが遅すぎてだいぶ前になりますが)先日は21歳のお誕生日おめでとうございました。
私は三浦さんがいつか、動きひとつで情景や温度やにおいまで描ける役者になると確信しているので、引き続きのお仕事が楽しみです。そしてそれは私の勝手な期待なので、それとは全く関係なく三浦さんがいつでもどんなことでも、やりたいことをやりたいようにやれるよう祈っております。

 

・まとめ

内容的にシーモアとオードリーの話ばっかしてしまったんですが、楽しかったのはなによりその二役以外の役者さんのお芝居のおかげだな~!!と思います。作品ってメインどころ以外の方たちが支えていて、総合的な満足度ってその方々のお芝居で決まると思ってるんですけど、すごくふくふくした満足顔で劇場を出ることができました。良い作品でした。本当に。

 

絶対にもっとたくさんの人たちに観られるべき作品だった。一瞬の夢みたいになってしまったことがひたすら悲しくて悲しくて仕方ないんだけれども、でもなんか世界も社会も丸ごといろいろありすぎて、そしてこれからも色んなことがあるだろう中で何を祈ればいいのかもよくわからない。ので、ともかくこの公演を観られた巡りあわせと、この作品を作ってくださった方々に感謝します。劇場にいる間、私はすごく幸せでした。何かあるごとにいつでもこうやって誰かに幸せにしてもらって生きているんだなあと実感するし、私もいつか何かの形で誰かに、それを返せればいいなと思います。