オリビエートの坂の上

観劇のメモを投げ込む予定です

舞台 PSYCHO-PASS サイコパス VV 感想

舞台 PSYCHO-PASS Virtue and Vice

森ノ宮ピロティホール

 

 

原作の世界をそのまま持ってきた新作スピンオフ!って感じでした。ここまで PSYCHO-PASSだとは思ってなかった。感想を一言で言うと、「すごくさいこぱすだった……」ってなる。

 

以下割と長いのですが、ざっくり項目分けして感想です。

 

 

<脚本演出の話>

演劇畑の方たちじゃないので(だよね?)どーすんのかな?と思ってたらまさかの「いつもやってる通りそのまんまやる」だったのが面白かったです。テンポ感とか話の流し方、シーン作りとかアクション入れるとことか完全にアニメ(というより尺の関係かどちらかと言えば映画)そのまんまに感じた。演出的な画作りは完全にドラマで、私にとってはめちゃくちゃ特殊でした。セットで撮影中のところを離れて観てるみたいな感じ?というと言いすぎかな。全体を見てると私の中ではそうじゃない感がすごくて(この舞台が一番魅力的に見えるのはこの視野じゃない!みたいな感じ)、2回目以降は位置関係とか観たいとことかわかってるので、7割くらいはオペラグラスを疑似カメラにして観てました。オペラグラスって一般的には拡大を用途にしてるけど、視野の枠を作るっていう使い方もあるよね…!ずっと後方席にいたので前方はまた感じ方が違ったのかもしれない。観てるだけでここをこう撮りたい!みたいな気持ちが湧き上がってたので、円盤の撮り方と編集に期待です。

私はいかにも演劇舞台演劇な演出が好きなのでそういう意味では好みには合わなかったし、映像で撮った方が映えそうだなとは思ったけど、そんならドラマにすれば良かったのにっていうのは違うんだよな…。サイコパスをわざわざ舞台演劇でやる意義って、一番は「シビュラの世界を生身の人間が生身の人間の目の前で生きること」だなと思ったので。シビュラはおとぎ話じゃない、という現実感、切迫感をもってあの世界を見せること。逆に演劇的にしすぎると、目には楽しくてもフィクションっぽさが出てしまうかもなあ、っていうのがあり、私の中ではこの舞台での優先順位はリアリティ>演劇的な目の楽しさだったので、これでよかったなーと。あと劇場ごとガラスの実験箱に入れられたような感覚も持ったんですけど、それも舞台上だけをフィクションにしすぎると舞台と客席で線引きができてしまいそうだし。なんにせよ、いつも自分がこれで当たり前だ!と思ってるのと全然違う点に焦点を当ててる人が作ってる!!って感じがバリバリにして楽しかったです。

細かい話でいくと、リアルタイムカメラという発想はすばらしかった。全体として画がめちゃくちゃ平面的なので、カメラでz軸が加わったのがよかった。現場を電波暗室にしといたのもナイスですね。①ドミネーターの戦闘では演出上限界があるので普通の刃物なり銃なり体なりのアクション主体にしないといけない②2人がドミネーター向け合うシーンの印象付けのために、それまで多用しない方がいい というのがあるので、いい設定だなと思いました。それとヘリの音!頭の上飛んで行ってめっちゃテンション上がりました。

 

 

<キャストさんの話>

内容について考えることがありすぎてキャストさんの感想がぜんぜんまとまらない。そしてなにせお一人お一人がすごくよかったんだよな…そうなるともう逆に満足して「良かった!!!」でくくりがち。サイコパス名物のアクションも、アニメじゃないのに目の前で起こっている…!?ってなったし。特に池田さんすごいね…!?アクション圧倒的だし演技もよかった…すばらし…。

印象的なのはやっぱ和田さんかな。私は和田さんのお芝居をめちゃくちゃ信頼しているのでキャスト発表の瞬間から最高を確信してドヤ顔してたんですけど、いやーすごかった…。なんの不安も与えない安定感のあるお芝居と、ニコっとされるだけで何もかも吹き飛んで夢見心地になる魅力的なお顔と、そして後半のあの…あの光のない目、愛すべき孤独。わだくまさんのファンめちゃくちゃ幸せじゃないですかありがとう…(これ全然感想になってないな…)。

あと多和田さん、太宰役ではじめて見てとっても好きだったので楽しみにしてたんですが、さらにさらに好きになりました。なんかめっちゃ蘭具だったんですよね!!!!(身も蓋もない感想)ああーーーーあのキャラで足技!!回し蹴り!!!!足がながい!!!!多和田さんのファンの方は落ち着いて息を吸ってください!!!!!キャラとしても蘭具くんすごくお気に入りです。

鈴木さんはこう来たか…みたいな演技でした。序盤からずっとすっっっごい違和感。何十分観てもまったく人物像が腑におちなくて、九泉はこういう人!っていうのが自分の中で定まらない。他の人物がまるでアニメみたいにバシッとキャラとして一本通ってるのでよけいに目立つ。考え方も統一性がないし言動が合ってない…「全然違う人間の設定を貼られてる」感じ(これは最後まで観たあとだから言える表現だけど)…と思ってたら、ガチで何者なのか分からない存在だった…………あっそういう…。もちろん脚本や演出によるところも大きいんでしょうが、演技でそんなことできるんだ…。鈴木さんは見る側に与える印象を操作するのがすごく精密だなと思うんですが、今回もいいようにされたなあという感じ。そして真実を知って、憑き物が落ちたように人間になるシーンのあの説得力。母を殺してエリートやってるような人間でなくて良かった、という言葉の安堵感と真実味がすごく好き。鈴木さんのお芝居みるのやっぱ楽しいなあ。

 

井口先輩は唯一無二の井口先輩だし相田さんのあの普通の人間らしさが切なくて大好きで、ほんとはもっとほかのキャストさんのことも書きたい 書きたいけどろくろを回す手が止まらないので次に行きます

 

 

<内容の話>

さんざんいろいろ考えたのに、何書けばいいか全然わからないので適当に並べます!

 

・白衣を着たシビュラは好奇心を持つのか

ちょっと性格疑われそうなんですけど、初見の感想は\シビュラいとしい/でした。人を人と思うという概念のないあの姿が、単純な知的好奇心に見えてしまったので。

今回の話、正直に言うと一番強く思ったのは「私もこれやりたい!!!」「もっと色んな条件で実験してみたい!!!」だったんですよね…。だって人間とは何か知りたいもの。分からないものを追いかけて探求するのは絶対的に楽しい。完全に欲だよね…。倫理や道徳や善悪とは完全に別枠の欲求。自分がそんな感じなのでやっぱりそのフィルターがかかってしまって、シビュラだって中身は人間の脳で、シビュラだとか大層なご身分になってすらまだ人間はなにか問い続けているのでは!?やってること私たちと同じだし、それはなんて人間らしく愛しいんだろう…みたいにどうしても思っちゃうわけです。

 一方で、シビュラは人間からできてはいるけどじゃあ朱ちゃんと同じように人間か、と言われたらやっぱり違う、はずなんですよね。未だシビュラがどんな動機で何を目的としてるのか読み取りきれてなくて、究極の「最大多数の最大幸福」(何故それを望むのかというと、それが最大効率だから?)に向けて進化しようとしてるのかな、というくらいの認識でいるのですが、そういう個の、というか個人的なものを一切度外視するのはまた人間とは違う何かだよなあ。一周回ってシステム的と言ってもいいのかもしれない。

だから散々言っておいてなんなんだけど、いくらあれが知的好奇心に見えたとしても、きっとそうではないんだよな。だって好奇心とかいうものは、「個人的な経験」「個人的な気持ち」だから、シビュラとは対極にある。好奇心があることになれば、それはシビュラの自壊では…という。

でもなー、そうかなー?シビュラとはなんなのだ??みたいな堂々巡りをしているんですよ…。そもそも論点がぐちゃぐちゃなんですけど…。シビュラは個ではないよね?個ではありようがないはずなんだけど、なんか個に見えてしまう時があるんだよなあ…。

 

この作品、軽く手を加えた監視官2人を含む3係とヒューマニストを箱に入れて、それをシビュラが白衣着て観察してるイメージなんですけど、それが面白かったな。

観劇する身としては、さっきまで実験楽しーー!!!って見てたのに、次の瞬間には海に…みんなで海に行って…とか呻いてたり、外と中、みたいな感覚が面白かったです。

 

 

・九泉と嘉納は哲学的ゾンビか?

九泉は部分的な哲学的ゾンビ、嘉納は暗示をかけられてるだけ、と考えてます。あんまりこういう思考が得意ではない人間の、現時点個人的解釈だと思ってもらえれば。

 

九泉は「初日に母親を殺した(執行した)」模造記憶によって、「シビュラは絶対である」「監視官は模範的な人間で、執行官は潜在犯上がりの危険・不適合な人間」というようなマニュアルを与えられた。マニュアルに関する事柄については、それに沿って言葉が出力されているだけ。例え言葉で怒っていても感情が伴っていない(自分で醸成した考えではない、思考が伴ってないから)=クオリアがない。マニュアルに関連しない事柄は(影響は受けるとしても)基本的に元の九泉から変わってなかった。で、マニュアルが燃えてなくなる(模造記憶だったことを知る)ことで、元の人間に戻った、という感じかな。

ゾンビといっても模造記憶のフォルダひとつ上書き保存されただけで(上書き保存なのかデリート→新規保存なのか、どういう処理してるのか気になるけど)、あんまり弄られてないなーという印象。その人がどんな人間かっていうのには先天的要素(遺伝子で最初から決まってる系)と後天的要素(それ以外)があって、模造記憶は後者のごく一部なので大丈夫、そんなに悩まなくてもだいたい君のまんまだから!!と思いながら観ていた。

 

嘉納はただ「クリアになったよ!監視官に異例の出世だよ!」って言われただけで特になにもされてないですよね。単なる暗示。というか暗示ですらなく、嘘をつかれただけ。これ手段としてかなりローコストだしこれでクリアな監視官作れるんならコスパいいけど、人間の性質をこれだけで変えるのは難しそうかな。人の基本的なものの考え方ってよっぽどのことがないと変わらないので。嘉納は「俺は人間だ」って言うけど、皮肉なことにほんとに普通に人間のままなんですよ。ゾンビ成分なし。

 

どっちかというと、この二人よりもヒューマニストのほうが断然哲学的ゾンビに見えました。親から与えられたシビュラ憎しのマニュアルに沿って言葉や行動を出力している。本当にシビュラは悪なのか?なぜ悪なのか?という個人の思考は彼らにあったんだろうか。このことに限らず、親に与えられた価値観って自分の思考を挟まず定着してしまうことって多いですよね。後々自分で疑問を持ったりしていればいいんですが、それがなければ貴方も私も哲学的ゾンビです。

 

 

・九泉と嘉納の対比

人好きのする人物だった嘉納が真実を知った後どんどん人間でない何かになっていくのと、何者かわからない継ぎ接ぎの九泉が真実を知って人間になるのとの対比、脚本としても演技としても見事だった。

この二人、物事の判断基準が自分の外にあるか内にあるかという点でも対照的だと思うんですよね。嘉納にとってのあるべき(ありたい)姿は「クリアな、潜在犯でない人間であること」で、九泉にとってのそれは「シビュラ的・社会的によしとされなくても、母親を殺さないような人間であること」だったので。

もっと言うとアイデンティティを他者に依存するか、自分の内側に持つかということにも繋がるのかな。真実を知って(=アイデンティティを揺らがされて)、嘉納は壊れ、九泉は逆に憑き物が落ちたみたいになったのは、そこの違いなのではないかと思う。自分の外側にあるもの(例えばサイコパスの数値)を自分であることの根拠にすると、そこをひっくり返されるとガタっとくるよね。その点、自分が自分たる根拠を自分の中に持っているのは強い。

九泉、自分の真実を知らされた時よりも嘉納の裏切りの方が信じられないみたいな顔をするのに、1ミリも嘉納には歩み寄らないんだよなあ。これ、嘉納がテロリストで仲間を手にかけているから、ではなく、自分は刑事だから、なんだと思う。自分は刑事であるという、自分の中にあるアイデンティティ

 

対比といえば、偽物と本物というテーマも強調されてたなと。九泉/嘉納、哲学的ゾンビ/人間、あたりに絡めて井口先輩の「フェイクだけど、それならではの役割を果たす」カフスボタンとか、相田の「本物じゃなきゃダメ」な海とか。そういう構造がきれいだとワクワクします。

 

 

・ 嘉納の心情推移とか動機の整理

直接的には語られなかったので、ざっと順番に考えてみました。

表面上の動きとしては、自分がクリアになったというのはシビュラの嘘だと知る→そんな非人道的なことをする「悪質な」シビュラは破壊しなければならない→目的だけ同じヒューマニストに加担、というところかな。でも軸にあるのは常に、精神的な自己保身かなと思っている。 

以下ちゃんとした文章にするとまた長くなるのでメモ書きのままです。

 

信じていたものはシビュラの偽装だった。本当はクリアではなく監視官の資格はない。偽物なのに本物だと思われる後ろめたさ、いつかバレるかもという恐怖、不適格なことをしている罪悪感に苛まれる。

そんな苦しみや孤独はシビュラのせいだという被害者意識が生じ、シビュラを壊すことが正当だという思考に発展。その手段としてヒューマニストに加担するが、テロリストになってしまった、人殺しの片棒を担いでしまったという自己嫌悪がさらに上乗せされる。これでよかったのか分からなくなり自分を見失う、自分が何者か分からなくなる。孤独が増す。

契機としては小規模サイコハザードの被害者が処分されるのを見たことと、目白を撃ったこと。もう戻りようがないところまで来てしまった。自分では戻れないので大城に殺して欲しい。甘え、縋り。でも殺してもらうためにはすべてを告白することになるし、つまりそれは大城の敬愛する嘉納ではなくなるということで、それが怖くてできないでいるうちに事態はどんどん進展し、大城は瀕死になってしまった。時間切れ。もう殺してくれる人はいない。このまま進むしかない。

執行官たちもヒューマニストも死んで誰もいなくなったところに、九泉だけがいる。真実を知った、自分と同じ「被害者」の九泉だけ。彼がいれば、もう孤独ではない。きっと自分のしていることをわかってくれるし、そうなれば自分が間違っていなかったことも補強される。しかし九泉がその手を取ることはなかった。

 

自覚はなかっただろうけど、嘉納にとってシビュラの支配を潰すこと自体の社会的意義はあまり重要ではなかったのではないかな。「シビュラは悪質だから潰さなければ」と思うことで自分が自分であること、人間であることを担保したかっただけで。それってマニュアルを自分で作って自分でゾンビになってるようなものなのでは、と思うし、結局嘉納は何物でもなくなってしまった。

 

嘉納さんってほんとに人間らしい普通の「いい人」というか、叩かれたらそこがへこむ、みたいな柔らかい、別側面から言えば弱い人だなと思っていて。

まあ手段にテロを選ぶあたり思考の方向性が潜在犯ではあるんだけど、潜在犯的な素質があることと人間的ないい人であることというのは別軸だし、両立しますよね。

目白のこと撃っちゃうのに殺せないの、すごく嘉納らしいなと思いました。もちろん「知りすぎた」からという実質的な理由かつ大義名分はあるけど、それ以上に怖くて撃った部分もあるのかもしれないなと。目白のテロリストへの怒りとか憎しみ悲しみを聞いてしまって、その気持ちの矛先が自分に向かうと思うと怖くて、恐怖に駆り立てられて撃つ。精神的な自己保身としての殺傷。

嘉納さん、基本的に自己肯定感が強くなくて、だから基準が他人に移りがちなんだろうな。他人の中にある自分と自分自身をイコールにしたがっているように見えたし、いつも後ろめたがって怖がっていた。目白を撃って隔離施設から戻ってきたあとのあの怯えた顔ね…。

でもだいたい人間そんなもんじゃないですか。他者に依存せず強固なアイデンティティを持つなんてそうそうできない。そういう人間らしい柔らかさ、弱さがあるのが嘉納だと思っていて、それを丁寧に演じられてるのがすごく好きでした。

 

 

 

ほかの3係メンバーのこととか言いたいこと山のようにあるんだけど、キリがないのでこのへんで。

PPVV、フタを開けてみれば全員潜在犯の話でしたね。社会的弱者の話。見事に全滅した…まあそうですよね……。アニメではスポットの当てにくいシビュラ社会の陰の部分、犠牲者たちを描くのは、シリーズ的にも有意義だったのではないかなと思いました。社会を論じるなら必要な視点だと思うので。

こういう方面で思考フル回転させられる舞台も楽しいな。アニメ3期も楽しみです。